アビシニアン物語り (小 説)



あび猫本舗Topページ   >小説 アピシニアン物語りTop > アピシニアン物語り

1 失意                               アビシニアン物語り 目次へ 

                                     アピシニアン物語り裏話(猫の毛色の遺伝など)はこちらから

ジェフは毛布に包まって浅い夢を見ていた。

「ジェフ起きなさい遅れるわよ」母のよく響く声、パンの焼ける香ばしい香り。

まどろみから醒めず毛布を顔に引き寄せる。

チクチクした硬い毛布の感触、違う、違う、すべて夢の中だ。

心地よい感触から突然現実の世界へと引き戻される。

ゆらり、ゆらりと左右に揺れる床、丸い小さな窓からは開け始めた空の色、オイルの嫌な匂い、

ゴォンゴォンと規則正しいエンジンの音。

キャビンには30人ほどの兵士がぶつかり合うように丸まって眠りについている。

どの体も毛布を頭まで被り身動きひとつしない。

ポーツマスの港を出た時は寒さが体にしみる頃だった、灰色の重い雲の下をくぐり抜けイギリス海峡を

出て大西洋、ジブラルタル海峡を越えて地中海へ入った頃には空の色は輝くように青く光り、船の揺れ

も心なし収まった。

昨日の夕刻やっと目的地の入り口アフリカ大陸の陰影をようやく見る事が出来た。

午後にはアレクサンドリアに入港できるだろう。

1852年の初冬に始まったアビシニアンとの戦いの補給隊としてイギリス艦船はアビシニアンに向かっ

ている。

アフリカ大陸の入り口アレクサンドリアから陸路、戦いの地アビシニアをめざす。

爽やかな朝の風、降り注ぐ明るい太陽、戦場に向かうと言う緊張を忘れてしまいそうになる美しい景

色。

コバルト色の海を隔てて弧を描いた海岸線に白い建物が並び日の光を受けて輝いている。

初めてのアフリカの地、デッキに身を乗り出すようにして兵士たちは皆大騒ぎで陸地を眺める。

丸いドームと針のように高い塔の建物の形が次第に大きくなって、船は東湾に入港する。

右手の細く突き出た岬の突端に眩く光る塔が見える。

アレクサンドリアのシンボルとなっているカイトベイの要塞だとジェフの隣に居たドナルドが言う。

「始めこの地には紀元前280年ごろ灯台が建設されて、その巨大さと明るさ故に世界七代不思議の一つ

に数えられていたんだ」細い弧を描いた岬の突端は灯台があるべき場所だと誰もが思った。

「しかし、残念な事に灯台は、地震と破壊によって機能を失って14世紀後半に灯台に使用された石材

を再利用し建設されたのが、今ここに見えるカイトベイの要塞だ」と
ドナルドは物知り顔で得意げに話

す。

ドナルドは4年前このアレクサンドリアから陸路カイロに入り遺跡の調査をするイギリス考古学研究隊

に参加していた。

ジェフにとっては初めてのアフリカの地、戦場アビシニアに続く大地。

船は港の中に停泊して艀の小船がキャンプ地の視察に出かける。

比較的安全と言われているアレクサンドリアではあるが油断は出来ない。

ここはアフリカ大陸なのだから。

バレット指揮官がバリトンの声で叫ぶ「バリー、オコネ

ル、ブランド、トーマス、おれと一緒に町に行く、艀に

乗れ」名前を呼ばれた者達は歓声を上げた。
                           
久しぶりの陸地だ、しっかりとした地面に足が付けられ

る。

ドナルド、君はアレクサンドリアに詳しいな、道案内を

頼む」

アレクサンドリアの町の話はドナルトから聞いていた、クレアパトラが毒蛇により自らの命を絶ち古代

エジプトが終焉を迎えた地。

ヨーロッパ、アフリカ、アジアの狭間に生まれたエジプト第2の都市。

ドナルドの語るアレクサンドリアの話は余りにも魅力的だった。

久しぶりの陸地に誰もが足を踏み入れたかった。

それと同時にこれから始まる戦場までの長い陸路、イギリス軍を待ち構えるエチオピアのテオドロス軍

の事を考えると心は複雑だった。

「残った者はそれぞれの任務に掛かれ、調理班、夕食には新鮮な魚を持ち帰るぞ、今夜は久々にフイッ

シュ
&チップスだ」バレット指揮官は髭だらけの顔をほころばせた。

皆いっせいにニヤニヤと笑った。

バレット指揮官のフイッシュ
&チップス好きは船では有名だ。

寄港地で新鮮な魚が手に入る度にフイッシュ&チップス、フイッシュ&チップス!!

遠く故郷を離れ戦場に向かう今、家庭の味を思い出すフイッシュ&チップスはバレット指揮官でなくと

もイギリス人には心に沁みる味だ。


岬に夕日が沈み空を茜色に照らす頃、艀の偵察隊が船に戻った。

新鮮な魚、野菜などが運び込まれ今夜は艦船最後の夜となる。

明日は早朝から下船が始まり、アビシニアを目指しての長く厳しい移動が始まる。

今夜が最後の安息の日になるかも知れない。

調理班のジェフは狭い厨房でジャガイモの皮を剥く。

「またネズミのやつにジャガイモを食われたな」

ジェフはネズミの歯型の残る部分を荒々しく取って皮を剥いたジャガイモをボールに放り込む。

船の厨房にはイギリスからの密航者のネズミ達が多く住む。

こんになに遠くまで来た事をネズミ達は知る由もないだろう。

アレクサンドリアの町から運び込まれた名前も解らない大きな黒い魚をおろし卵と小麦粉と水を混ぜた

衣をつけて油で揚げる。

揚げた棒状のジャガイモの山がうず高く積まれてゆく。

狭い厨房は揚げ油の熱気で灼熱のように暑く、揚げ物の匂いが充満して胸を悪くしそうな気分にさせ

た。

ようやく最後の魚が揚りジェフは休む事なく出来上がった魚を大きな金属のトレーに乗せて運ぶ。

皆、忙しく食堂の配膳作業に取り掛かっていた。

最後のトレーを取りに厨房に戻ると部屋の中が妙に明るい。

さっきまで魚を揚げていた油の鍋から炎が上がって今にも天井の板まで届きそうだ。

側にあった、布にも火が飛んで炎を上げている。

めらめらと赤い炎が勢いを増して立ち上がっている。

ジェフは急いで上着を脱いで、水に濡らし油の鍋に覆う。

水蒸気が上がり、水で跳ねた油が飛び散ってジェフの体に容赦無く降り注ぐ。

ジェフは頭が真っ白になりながら火を懸命にもみ消した。

熱さも痛みも解らないまま、火と懸命に戦った。

食堂にいた兵士はジェフの叫び声を聞いて、急いで厨房に戻るとすでに火災は沈下していて、もうもう

と充満した煙の中にジェフが呆然と立っていた。

そして、崩れるように倒れこんでしまった。

ジェフに意識が戻ったのは火事から2日後の事だった。

体の右半分にたとえようもない激痛が走る。

右側の胸から肩、腕、なかでも手の火傷が最も酷かったが、指先は痛みを感じるよりは感覚がまるで

無かった。

顔には飛んだ油で出来た水玉もようの水泡が破れて、そこからじくじくと黄色い液体が漏れて包帯を

濡らした。

ジェフは高い熱にうなされて1週間を過ごした。

意識は時折鮮明に戻りそしてまた夢の世界へと連れ戻されて行った。

苦痛だけは、無意識の中にも付いて来てジェフをいつでも苦しめた。

2週間を過ぎる頃、やっと熱も下がり食事も出来るようになった。

ジェフが激痛と戦った2週間の間にイギリス軍の兵達はアレクサンドリアを離れアフリカ大陸をアビシ

ニアに向かって南下していた。

ジェフは無意識のままアレクサンドリアに上陸し、イギリス居留地にある教会と棟続きの建物に寝かさ

れている。

ベッドと机が置いてある小部屋。

白い漆喰の壁と天井は、はちみつ色に変色していてデコボコと歪んでいる。

窓の外の中庭には青空を貫いて、なつめやしの木が高く茂りイギリスでは目にした事もない大きな楕円

形の葉をした木ほどの植物が日の光を受けて葉脈を透けて見せている。

細かい葉のつる草は地面を覆い白い花を一面に咲かせている。

ギシギシと床をきしませて長いパジャマのような服を着た太った中年の女が朝と夕方に来て包帯を取り

替え薬を置いて行く。

髪をスカーフで覆った浅黒い顔が、優しい目でジェフに微笑みかける。

しきりに何か話しかけるが、アラビア語らしい言葉はさっぱり解らなかった。

食事は違う痩せた小柄な女がいつも持って来るが、こちらも言葉が解らない。

ジェフは、苦痛がゆるやかなカーブで和らいで来ると反対に不安が胸の中に大きく脹らんでいった。

仲間達は、もう遠くに離れてしまった。

戦闘に加わる事も出来ないで、一人異国の地に取り残された挫折感が心を押しつぶしそうになる。

期待と不安に胸を弾ませてポーツマスの港を出港した朝の事。

泣きながら見送ってくれた母クレアの顔を思い出す度に胸が熱くなった。

父はジェフが9歳の時にクリミア戦争に出兵してそのまま帰らなかった。

残された母は、途方に暮れたが洋服の縫製の仕事を見つけて働き弟のマイルスと自分を育ててくれた。

別れの日に握った母の荒れた細い指が今でも忘れられない。

戦地で成果を残し堂々とイギリスの地に戻ると誓った約束が何度も胸を過ぎる船での事故が悔やまれて

ならなかった。

傷が治ったら、後発の部隊と合流して必ずアビシニアの戦争に加わろう。

自分に言い聞かせながらも、言葉も通じないこの場所で自分がどんな状況にいるのすら解らなかった。

                                                         

2 ズーラ                                       アビシニアン物語り 目次へ 

ズーラは不機嫌だった。

涼しい風が吹くお気に入りの木陰で毛づくろいを熱心にしても気分が晴れなかった。

時折草むらを揺らす風の音に猫は耳の方向を変えて用心深く物音を聞いていた。

いくら待っても、聞きなれたベレニケのサンダルの足音は聞こえない。

2週間前の夜、家に見知らぬ男がやって来て、ベレニケと話をしいた。

「その人は父の情報を知っているかもしれないのですね」

「彼の持っている物が父のものかどうか私が見ればわかります」

男が帰るとベレニケは布製の赤い鞄をクローゼットの奥からひっぱり出して、服を入れ始めた。

この赤い鞄がズーラは大嫌いだった。

ベレニケがこれを出す時はロクな事が無い。

ずいぶん前にもこの鞄を出した次の朝からベレニケは出かけてしまった。

そして永い間帰って来なかった。

ズーラは長いしっぽの先を少し丸めて小刻みに震わせながら、ベレニケの足に擦り寄って顔や体を丹念

に擦りつけてみたがベレニケは忙しそうに旅立ちの支度をして相手にしてくれない。

精一杯の甘い声で鳴いて足元に絡み付いてみるがベレニケは部屋の中をあちこちと移動して、荷物の山

に手を突っ込んでは必要な物を集めて鞄の中に放り込んでいる。

ベレニケが開けたクローゼット中に飛び込んで、丸まった衣類の中に隠れベレニケの反応を試したがい

つものように笑ってだめな仔猫ちゃんねとは言ってくれないで、何かを考え込んでいるように時々唇を

噛み締めていた。

ズーラは最後の手段とばかりに赤い鞄の中に潜り込んでしまうと、ベレニケはズーラの体を鞄から引き

出して、抱きしめて黒い大きな瞳でズーラを見つめて「ズーラ、パパの行方がわかりそうなの、カイロ

まで行って来るわ」と言った。

ベレニケは東の空がほんの少し明るさを取り戻した頃、スカーフで髪をすっぽりと覆い赤い鞄を持って

朝露に濡れた中庭を通って出て行った。

それから何度かの夜と朝が来て、太陽は穏やかな春の日から次第に強さを増し季節は急ぎ足で夏へと向

かっている。

テティは毎日煮た魚を持ってズーラの様子を見に来るものの、すぐに帰ってしまう。

テティの子供達はズーラのしっぽを追いかけたり、大きなかん高い声で騒ぐので好きになれない。

すぐに泣くし、ベタベタの手で触られるのも嫌だった。

優しい手で自分を撫たり、遊んでくれる大好きなベレニケは戻らない。

ズーラは、庭の木の枝を上って開いた高窓から部屋に入り、機敏に窓の枠、カーテンレール、本棚と順

々に伝い歩きをして一日に何度もベレニケの部屋にやって来た。

主の居ないベッドの上で彼女の残した匂いをかいで気持ちを落ち着かせた。

午後は毎日なわばりの確認に町に出かけた。

領事館広場の北側にあるイギリス人居領地と広場を越

えた南側にあるフランス人居留地を毎日同じルートで

巡って歩いた。

そ者はいないか変化はないかと注意深く他の猫達の


残した匂いをかいだり、体や頭を木や建物の角にこす


り付けて自分の匂いを残し、お気に入りの古材で思い

っきり爪とぎをした。

夜はイギリス人居留地の教会の草むらで開かれる猫達の集会にも顔を出した。

この地区のなわばりには6頭の雄と3頭の雌がいて雌がシーズンを迎えると、その匂いに興奮した雄達

は、数少ない雌を勝ち取ろうと雄同士は顔を合わせると罵り合い、時には引掻き合い激しい喧嘩をし

た。

雌のズーラは、雄達の必要な追求に逃げ惑い最後には気に入った雄猫に体を預けた。

シーズン中の雌の居ない今は、数匹の猫達が教会の草むらに集まって、それぞれに守備範囲の距離を

保って暗闇の中お互いの匂いや姿を確認してただ黙って時間を過ごしたり、気の合う雄の黒猫が来た時

にはお互いふんふんと鼻を合わせて挨拶をしたりもする。

ズーラは去年の3月の始にアレクサンドリアのスーク(市場)の絨毯やタペストリーを売る店の倉庫で生ま

れた。

母猫は縞模様の猫で生まれた4匹の兄妹は、黒猫の雄が1匹、縞模様の雌が2匹で、ズーラだけが野うさ

ぎのような茶色の変わった毛の色をしていた。

この変わった毛色の猫は稀にエジプトでは見かける突然異変の猫で古代エジプトの壁画の猫と似ている

と言われエジプトの人々の間で珍重されていた。

この珍しい毛並みの猫の話を聞いたイギリス人の考古学者のサイモン・マリオットは絨毯店の主人から

猫を譲り受けて娘のベレニケの
16歳の誕生日に家に連れ帰った。

新しい棲家を得たズーラはベレニケの愛情に包まれて成長していった。

仔猫だったズーラは回りに棲む猫達にも難なく受け入れられてイギリス人教会の回りをテリトリーとし

た。

ズーラの小さかった体は1年を待たずにしなやかで力強い筋肉質のスレンダーなボディになり、綾織の

ような毛並みは成長するにしたがい美しさを増していった。

1歳を待たずズーラは妊娠して2匹の仔猫を妊んだが、冬も終わりに近かずいた頃に、早産してしまいベ

レニケさえ妊娠に気づく事はなかった。


今日もズーラは中庭の木陰で目を閉じて浅い眠りを楽しんでいる。

涼しい風が吹いてズーラの体を心地よく撫ぜて行く。

なつめやしの木を揺らして風がざわざわと音を立てる。

眠りの中でも聴覚は研ぎ澄ましていて、ベレニケの足音を聞き漏らさないようにと時々耳をピクピクと

動かしている。

その時、風が運んだ鼻先にくすぐるような匂いを感じてズーラは急に目を見開いて鼻をふんふんとさせ

て匂いを吸い込んだ。

今までに匂いだ事もない不思議な匂い。

食べ物では無い、雄猫の匂いでも無い鼻をくすぐる微かな匂い。

ズーラは体を起こして背中の毛をピクピクっと動かした。

何かを感じた気持ちを落ち着かせるように、胸元の毛を23回毛づくろいをしてから立ち上がって、風

に乗って来た微かな匂いを追い中庭をゆっくりと匂いの強くなる方向へ歩き出した。

匂いはほんの僅かで時折消えてしまいそうだったが、ズーラは慎重にその跡を追って中庭の反対側にあ

る建物の開け放された窓の下までたどり着いた。

窓にはハンガーに掛けられたタオルが風にゆらいでいる。

ズーラは、大きく息を吸い込んで鼻の回りの白い毛を膨らませた。

薄暗い室内は静けさに包まれていてズーラからは部屋の天井に近い壁の部分の漆喰が見える。

用心深く耳を向けて中の音を聞くが庭の風の音が聞こえるばかりだった。

ズーラは決心をしたかのように、薄暗い部屋の中をじっと見つめて次の瞬間、後ろ足で地面を強く蹴っ

て体の
4倍はある高さの窓の枠まで軽々とジャンプした。

窓枠に立って部屋の中を見ると、窓に向かって机と椅子が置かれ、はちみつ色のデコボコした壁際に真

鍮で出来た古いベッドが押し付けて置いてあった。

ベッドの上には、濃い栗色の髪をした男が毛布に包まって眠っている。

手や腕に巻かれた包帯からは、黄色い染みが丸い模様を作っている。

消毒の匂に混じって感じるあの鼻をくすぐる微かな匂いは、ここから感じたものに間違いはなかった。

ズーラは窓枠から机の上に飛び降りて、さらに床までジャンプして降りた。

部屋の隅々の匂いを嗅ぎながら、足の肉球で感触を試すように部屋の中をグルグルと歩いてからベッド

の上にピョンと飛び乗った。

男は、午後の涼しい風に吹かれて眠っている。

濃い栗色の髪から少し見える横顔は、眉根を寄せて苦痛を感じているようにも見える。

落ち込んだ頬には無精髭がザラザラと生えている。

ズーラは、ベッドの上で大胆にも男の顔に鼻を近づけてふんふんと嗅いでみた。

男は浅い寝息をたて、小さな侵入者に気が付きもしない。

心地よい懐かしい匂いに包まれてズーラは心安らぐ気持ちになった。

男の腕と胸の間の窪みにちゃっかりと座り込むと、丹念に毛づくろいを始め、足を舐めて顔までも洗っ

た。

そして、大きな口を開けてあくびをすると目を閉じて眠ってしまった。


3  侵入者                                  アビシニアン物語り 目次へ 

ジェフはまどろみから醒めた時、なぜか自分が微笑んでいるのに気が付いた。

火傷の苦痛は時が過ぎるにつれて和らいではいたが、絶え間なく疼く痛みは夢の中まで追いかけて来て

それが悪夢へと誘っていた。

こんなに穏やかな目覚め気分は久ぶり事だった。

胸にわずかな重さを感じて、目をやるとそこに野うさぎのような毛皮があるのに気が付いた。

野うさぎかと思った毛皮にはとんがった耳が付いていて後ろ向きの背中はゆっくりと上下に動いて、胸

に当たった体から生き物の温かい体温が感じられた。

ジェフは驚いてほんの少し腕を動かしてした。

丸くなってゆったりと眠りに落ちていた動物は耳を

ピクッとさせて頭を上げてジェフの顔を見た。

金色のアーモンド型をした目を大きく見開いて驚い


た顔でジェフを見つめた。

そして飛び上がるように跳ね起きてジェフの腕から

一目散に窓に向かって猛ダッシュした。

床を蹴って体を大きく伸ばし窓枠に飛び乗り中庭に駆け出して行った。

一瞬の出来事だった。

ジェフはまだ夢の中に居るような気分で呆気にとられて窓の外を見つめた。

今、自分の腕の中で眠っていたのは猫だった。

それも見た事もない野うさぎのような毛色の猫。

ベッドから起き出して猫の走り去った中庭に目を凝らしても姿は見えなかった。


言葉も通じない異国で不安と苦痛に耐えて悶々とした日々を過ごしていたジェフにわずかな、楽しみが

出来た。

それから朝起きてはまず、中庭に目をやって猫の姿を探した。

一日何度も中庭の草むらの間や木の根元や遠くのなつめやしの所まで隅々まで眺めたが、あの変わった

猫の姿は見えなかった。

数日が過ぎて、昼の過ぎの涼しい風に誘われてベッドでまどろんでいると何かの気配を感じてジェフは

静かに目を開けた。

体を動かさず慎重に目だけを窓の方向に向けると、猫が窓枠に乗って入って来る所だった。

背中に日の光を受けて複雑なゴールドの色をした毛がキラキラ輝いて見える。

丸味のあるV字型の頭には大きな耳がピンと立っている。

しなやかで筋肉質なすらりとした体に細い足。

イギリスで見ていた、猫とは様子が違っていた。

猫は窓枠から降りて机の上を歩き、床にトンと足を降ろした。

それから、躊躇する事なくジェフのベッドに飛び乗った。

ジェフは目を閉じて、深く息をして猫に悟られないようにじっとしていた。

猫はベッドの上で鼻をふんふんさせて匂いを臭でいるようだった。

鼻息がジェフの顔に掛かって、笑ってしまいそうになるのを堪えるのに苦労した。

猫に気づかれないように薄目を開けてそっと見る。

猫はジェフの腕と胸の間の毛布の窪みに入ると落ち着く場所を探すかのように何回も向きを変えてから

やっと座り込んだ。

背中の毛を丹念に舐めてから大きなあくびをし、体を丸くしてグルグルと喉を鳴らしながら眠ってしま

った。

それからジェフは毎日午後になると、窓を大きく開けてベッドに横たわり寝たふりをして猫を待った。

その後、猫は気まぐれに来ない日もあったが、だいたいは決まった時間にジェフの所にやって来ては眠

りそっと出て行った。

数日が過ぎて猫は習慣のようにジェフの腕の中で眠り警戒をしていないように思えた。

ジェフは思い切って怪我をしていない左の指先を動かして猫の頭を軽く撫ぜてみた。

猫は驚いた様子もなく気持ち良さそうに首を傾ける。

指先を耳の付け根から首筋に滑らせてクリクリと撫ぜると猫は大きく喉を鳴らし、うっとりと自分の頬

をこすり付けてきた。

その日からジェフと猫は急速にお互いの距離を縮めた。

猫は近くで見ると、とても変わった毛色をしている事が解った。

背中の11本の被毛は34色の濃淡のクラデーションをしていて、全体はまるで黒と茶色が織り成す綾

織りのような豊かな色合いの毛色をしている。

グラデーションの被毛を掻き分けると赤みのある深い褐色の下毛が見える。

胸から腹の下は温かみのある褐色の毛色で、鼻の周りと口から顎の下にかけての白い毛が顔のアクセン

トになって猫を愛らしく見せていた。

胸と前足、尾には縞猫のような縞模様が数本薄っすらと入っていた。

大きな耳と小さな顔、筋肉質な体、長い尾。

まるで古代遺跡の壁画に描かれているような猫だと思った。

猫を見ていると、イギリスを出て遠くエジプトの地に居る自分を強く感じた。

アレクサンドリアに来て以来、病室から一歩も外に出ていない。

いったいこの異国の地はどんな所なのだろう。

猫さえも、イギリスの猫とはこんなに違うのだから。

猫は、毎日午後になると窓枠にピョンと飛び乗って部屋に入って来る。

ジェフは猫が来るのを楽しみにして食事の中から肉を取り分けて猫に与えたりもした。

猫は足元に擦り寄ってぐるぐると喉を鳴らした。

強い風が吹いて、なつめやしの木ざわざわと揺する午後、猫はいつものようにやって来てジェフの膝で

昼寝をしていた。

ドアをノックする音がして振り返ると、戸口にイギリス人らしい口髭を蓄えた小太りの男が立ってい

た。

バートン上等兵、傷の具合はどうですか?」久しぶりに聞く英語だった。

ジェフは慌てて立ち上がった。

立ち上がったと同時に猫は膝から降りて、一目散に窓枠に走り上がった。

「ズーラ、お前がどうしてここに居るんだ」口髭の男は猫を見てグレイの目をしばたいた。

「ズーラですって?この猫をご存知なのですか」

「もちろん知っていますよ、ズーラは特別な猫だからね」

「そうか、ベレニケが留守だからお前も寂しんだな」髭の男はひとりごとのように言った。

「始めまして、ジェフ・バートン上等兵であります」ジェフは緊張して男に敬礼しようとしたが、右手

のぐるぐる巻きの包帯がつっぱって腕が上がらなかった。

髭の男は気の毒そうにその様子を見ながら「私はイギリ人居留地で医者をしとりますニール・オブライ

エンと言います」と言って分厚い毛むくじゃらの手を出して、ジェフの左手を握った。

「君が船から担ぎこまれてから、火傷の感染症で高熱を出してな、一時は心配したんじゃ」

ジェフはやっと事態が飲み込めて「自分は船での火事からここに運ばれて来た時の事はまったく記憶に

ありませんでした、先生にお目に掛かるのは始めてと思っていました、大変なご恩を受けながら失礼致

しました」と言った。

それから夕方になるまで、ジェフはオブライエン医師と久しぶりの会話を楽しんだ。

火傷を負ってイギリス人居留地まで運ばれて来た時の様子や意識不明だった間の事も話してもらった。

オブライエン医師はジェフが来た数日後に南部の村で伝染病発生の連絡を受けて出かけ、やっと今日戻

って来られたと言う事だった。

いつも包帯を変えに来たエジプト人の太った婦人は、オブライエン医師の手伝いをしているテティさん

だと紹介を受けた。

ジェフはオブライエン医師から教えてもらったばかりのアラビア語で「シュクラン(ありがとう)」と心

からお礼の言葉を言った。

テティは人なっこい、笑顔で笑ってアラビア語で何か言った。

オブライエン医師は、ジェフの包帯を外して傷の診察をした。

顔の水玉模様の水泡の跡は潰れて黒くなって乾いてきている。

胸と腕は乾いたところもあるが、白くなった部分や皮膚が剥がれた部分はまだじくじくとしていた。

一番の問題は右手の指で、中指、人差し指の皮膚がくっついてしまって見るも無残な様子だった。

オブライエン医師は「ふぅーむ」と小さくため息をついて、ベタベタした軟膏を塗り包帯を巻きなおし

てしまった。

シェフは傷の様子を詳しく聞きたかったが、悪い話を聞く心の余裕が持てなかった。

そんなジェフの気持ちを感じてかオブライエン医師は、八の字髭を何度か擦って、「明日から部屋の外

に出て少し体を動かしたほうがいいじゃろう、この町の連中にも紹介せんとな」と言った。

ジェフは聞きたい事が山のようにあった、アレクサンドリアの町の様子、イギリス人居留地の人々の事

そして何よりも気に掛かるのは遠く離れてしまった部隊の事。

部隊はもう、アビシニアに着いたのだろうか。

テオドロス軍との戦況はどうなっているのだろう。

聞きたい事が解決する間もなく時間は過ぎて、オブライエン医師はそろそと言って椅子から立ち上がっ

た。

ジェフは急に思い出して「ズーラはなぜ特別な猫なのでありますか?」と言った。

「君は、ズーラのような毛並みの猫を見た事があるかね」

「イギリスでは見かけませんが、エジプトに多い種類の猫だと思っていました」

「エジプトでもズーラのような毛色は稀なんじゃ、サイモンは苦労して手に入れたと聞いとる、何しろ

エジプト人は猫に対してうるさいからのう」

オブライエン医師はそう言うと、部屋を出て行ってしまった。

ジェフは久しぶりに語り合った事で、心の落ち着きを取り戻しつつあった。

              

4 ベレニケ帰る                                          アビシニアン物語り 目次へ 

アレクサンドリアの町は太陽に満ちていた。

部屋の窓から永いあいだ眺めていた景色の中に立てば、木々の葉は輝きを増して日の光が眩しく感じら

れた。

青空に高くそびえる、なつめやしの木。

遠くに見える丸いドームの屋根や針のように細い塔。

久しぶりの外の光にジェフは思わず目を細めた。

石畳の道を荷物をつけた荷馬車がガタゴトと走る。

心地よい風が駆け抜ける町。

オブライエン医師の案内でイギリス人居留地の中を巡った。

居留地の教会ではルアン神父とも挨拶を交わした。

運送会社の従業員ロートンさん、ブランドさん。

貿易商のクレックさん。

考古学研究員のブレアさんと奥さんのメアリーさん。

イギリス人居留地には様々なイギリス人がいるようだった。

居留地の南側は広場になっていて、その端は市場へと続いていた。

市場はスークと言って食料品や衣類、雑貨などいろいろな珍しい品物がテントを貼った小屋や路上で売

られている。

生きた鶏やハトが籠の中で鳴いている。

緑色のすいかは三角形に几帳面に積み上げられて路上に置かれている。

小麦の入った麻袋の山、溢れんばかりの色とりどりの野菜。

物売りの声、値引き交渉をする人々の声。

香辛料を売る店では何種類もの見慣れないスパイスの香りが鼻をくすぐる。

エジプトの男達は、ガーベラーヤと言う丈の長いパジャマのような民族衣装を着て路上に座りのんびり

と客を待つ。

路上に散らばったゴミが風に飛ばされてカサカサと音を立てる。

縞柄の猫が狭い路地で残飯をあさっている。

ジェフはやっとアレクサンドリアの地に立った事を実感した。

半月前、船がアレクサンドリアの東湾に入港した時に見た夕暮れに茜色に染まったカイトベイ要塞を思

い出した。

兵隊仲間のドナルドが話したクレオパトラが自らの命を絶ち古代エジプトが終焉を迎えた地、アレクサ

ンドリア。

ヨーロッパ、アフリカ、アジアの狭間に生まれたエジプト第2の都市アレクサンドリア。

今やっと自分の足でその感触を味合う事が出来た。

日がたつごとに、ジェフの火傷の傷はだんだん乾いて胸と腕の一部は、新しい皮膚が浮いてきて快方に

むかっている。

右手の指は白く変色した所がまだ感覚が戻らず、指はくっいたままだった。

指を見るとジェフの気持ちは落ち込んだ。

右手が治らなければ、後発の部隊に加わってアビシニアに向かう事は出来ない。

後悔が、繰り返し頭を駆け巡った。

あの時、火事さえ起こらなければ、冷静に離れて消火していれば・・・・

いくら考えても、同じ道を繰り返すだけで後悔の過去は解消されなかった。

自分の気持ちとは裏腹に何の屈託もないような、アレクサンドリアの青空を見ていると取り残されたよ

うな気持ちがして独りぼっちが辛く感じられた。

そんな時のズーラの訪問は嬉しかった。

膝の上でごろごろと喉をならす柔らかく温かい生き物。

ズーラは、アレクサンドリアに来て一番の心許せる友となっていた。


ある朝目覚めると外の景色はすっかり変わっていた。

昨夜からの砂嵐で町は茶色に染まっていた。

砂嵐は昼になってもおさまらず、建物をすべて茶色に染め

美しかった木々の緑も見る影もなく茶色一色になってしま

った。

砂嵐で空に飛ばされた幾つもの紙くずや、洗濯物らしいシャツまでもがくるくると宙を舞っていた。

砂嵐の中を向こうの通りから、大きな鞄を下げた女がスカーフで髪と顔をしっかり覆い、顔を伏せなが

ら急ぎ足で通って行った。

それ以外、この砂嵐に立ち向かって歩く勇者は猫一匹いなかった。

茶色の砂は、窓の隙間から容赦なく室内に入り込み部屋は砂だらけで酷い状態だった。

綺麗好きな母クレアに育てられたジェフには、こんな状態は耐えられない事だった。

ジェフは、砂が入らないように新聞紙を窓の隙間全部に挟みこんだ。

テティから掃除道具を借りて机やベッドを動かして大掃除をした。

右手が殆ど使えないジェフにとって掃除はやっかいな仕事だった。

ベッドに上がった砂を払い、部屋中の砂を集めたらバケツの半分ほどにもなった。

砂は赤茶色で粒が均一なサラサラとした砂漠だった。

遠くアビシニアに去った仲間の兵士達は、この砂にまみれ戦っているのだろうか。

清潔になった室内で、ジェフはバケツの砂を見つめていた。

掃除も終わり一息ついて母に手紙を書いていると、誰かがドアを叩いた。

「バートンさん」と聞きなれない女の声がした。

ドアを開けるとスカーフを被った若い女が立っていた。

「こんにちは、バートンさんベレニケ・マリオットと言います、私の猫がこちらに来ていないかと思

って

ジェフは女を見て驚いた、彼女は砂嵐の中を歩いて来たらしく全身茶色の砂まみれだった。

頭に被ったスカーフや服はココアパウダーを振ったケーキのようで、顔や濃いまつげの先にまでも砂粒

が張りついて酷い状態だった。

彼女は、つかつかと部屋の中に入って来て黒い瞳をキョロキョロさせて猫を探した。

彼女が歩いた後は、掃除したての床に茶色い足跡が付きボロボロと砂か落ちた。

ジェフはベレニケを硬い顔で見返して「猫は来ていませんが」と言った。

「テティからズーラがこっちに遊びに来てるって聞いて、今日はこんなハムシーンじゃ猫も飛ばされち

ゃうわね」ベレニケは白い歯を見せて笑った。


「ハムシーン
?

「ああ、砂嵐の事よ、この季節には時々あるけど散々だわ」

そう言うと肩に溜まった砂をパンパンとはたいた。

砂は煙のように舞って、ジェフは思わず眉根をよせた。

ジェフはこんな無神経な女とは関わりたくないと思った。

「ズーラったら何処へ行ったのかしら、ハムシーンの中を急いで

帰って来たのに」

「猫がもし来たらテティさんに連絡しますから」

ジェフは、まったくの無表情でぶっきらぼうに言った。

「それじゃ、お願いしますね」と、ベレニケは人なっこい笑顔で微笑んで、部屋から出て行った。

ドアの閉まる音がすると同時にジェフはため息をついた。

いったいあの女は何なんだ。

容姿はエジプト人のようであり、雰囲気はイギリス人のようで訛りのない英語を話す若い女。

無神経でがさつな女。

掃除したての部屋は、ベレニケが残して行った茶色の足跡が模様のように付いていた。

それを眺めてジェフは、また一つ大きなため息をついた。



5 気の合わない人

ベレニケはドアを背にして、ぼおっと立っていた。

ズーラを探して部屋に入ったものの、その事は見事に頭の中から消えていた。

胸はドキドキと早い音をたてて、頬は熱くなっていた。

何て素敵な人なのかしら。

心の中でつぶやいた。

イギリス人居留地でも、フランス人居留地でもあんな人見た事もないわ。

背が高く筋しまった体に、すらりと伸びた手足。

ほっそりとした顔立ちに、涼やかで穏やかそうな瞳。

ブラウンの柔らかそうな髪の毛。

話す時の少し眉根を寄せた陰りのある表情。

思い返すだけで、胸は高まった。

17歳のベレニケは一瞬でジェフに恋をしてしまった。


砂嵐は夜更けになっておさまり静かな夜が訪れた。

青いセロファンのような夜空に太った月が昇り夜の空を照らした。

ベレニケは閉まったままの高窓を開けてズーラの帰りを待った。

夜明けに猫は、庭の木の枝を上って開いた高窓から部屋に入って来た。

部屋に入ると鼻をふんふんさせて、待ちわびていたベレニケの匂いを感じると一挙にカーテンレールか

ら飛び降りて、ベレニケのベッドに潜り込んだ。

猫はゴロゴロと喉を鳴らして、ざらざらした舌で顔を舐め両手で押すようなしぐさをしてみたが、深い

眠りに落ちたベレニケは目覚めなかった。

日が高くなって、ベレニケが目覚めるとズーラは椅子の上できしりに顔を洗っていた。

ベレニケは飛び起きてズーラを抱きしめキスをして、離れていた時間を埋めるように体中の毛をていね

いに撫ぜて櫛のようにかきあげた。

猫は頭を上げて目を細め、背中をピクピクさせながら久しぶりの再会を喜んでいるようだった。

「ズーラ遅くなってごめんね、パパの情報を追ってカイロからベニハッサンまで行ったけど、何も解ら

なかったわ」
ベレニケは、そう言って目を潤ませた。

乾いた平たいアェーシ(パン)で軽い朝食を済ませると、スークまで出かける事にした。

1ヶ月近くも留守にしたので、食料はほとんど無かった。

ズーラも砂嵐でネズミも獲れなかったらしくて、朝からハラペコで何度もベレニケの足に立ち上がって

鳴いて食事を催促したが家にはズーラの食べるものは無かった。

ベレニケが帰った事は、イギリス人居留地の人は皆知っていた。

父親の消息がまたつかめなかった事もテティから伝言ゲームのように人々に知れ渡って彼女が通りで人

に逢うごとに「気を落とさないでね」とか「疲れているだろうゆっくりお休み」など慰めの言葉を掛け

られその度に悲しい気持ちが増して行った。

父親の仕事仲間の考古学研究員のブレアさんの所に寄ってカイロでの事、ベニハッサンに行った訳を話

した。

「サイモンが居なくなったのはクリスマスの前だから、らもう半年にもなるね」ブレアさんは、たばこ

の煙をゆっくりと吐き出しながら言った。

「カイロのハーン・ハリーリ市場にある骨董屋のリハードさんが、パパの時計を買ったと言う話を聞い

て急いで店まで行ったら、リハードさんはベニハッサンまで出かけてしまって、私も追いかけてベニハ

ッサンまで行ったけど、すれ違いみたいで逢えなくて」ベレニケが言った。

「サイモンもベニハッサンにはよく行っていたね、あそこで出土された猫のミイラに興味を持っていた

ようだし、やはりリハードさんが何か知っていそうな気がするんだがね」

「それに、サイモンが時計を売ったって事は急にお金が必要になったって訳だし、何かありそうだね」

そう言ってブレアさんは何か考え込んでいるようだった。

奥さんのメアリーさんは、気を落とさないようにねと何度も言ってベレニケの手を握り締めてくれた。

ベレニケの父親、考古学博士のサイモン・マリオットが家を出たのは12月の20日の早朝だった。

「カイロへ行って23日で帰るよ、クリスマスを楽しみ待っておいで」と言い残して、開け始めた朝の

光の中を出て行った。

約束のクリスマスが過ぎても新しい年が来ても父は帰らなかった。

サイモン・マリオットは、イギリスの考古学チームの一員で、動物考古学を専門とした研究員だった。

所属していた研究チームが資金不足からイギリスに引き上げてからも、エジプトに留まり独自で情報収

集や調査を続けていた。

カイロを拠点に始まった生活は、20数年の歳月を経てエジプトの各地を転々と移動しここ数年はアレク

サンドリアのイギリス人居留地に落ち着いている。

ベレニケは、父から連絡がなくなって始めの2週間は父の気まぐれかと思ってのん気にしていた。

一人のクリスマスは寂しかったが、こんな事は始めてではなかった。

父から何の連絡もないまま1ヶ月が過ぎベレニケはだんだん不安を感じてカイロで父が使う定宿まで出

かけて行った。

定宿の主人は、サイモンはイブの前日23日までは宿泊していたがその後は出て行ったと言う事だった。

父の消息がつかめないまま冬が終わり、春が過ぎ夏が来ようとしていた。

ベレニケは、ブレアさんの事務所を出て落ちこんだ気持ちを吹き飛ばすよう空に向かって深呼吸して頬

を両手で
2度軽く叩いた。

アレクサンドリアの空は悲しみとは似合わない澄んだ青で、眩しい太陽が頬を照らした。

ベレニケが事務の手伝いをしているアトランテック貿易によってクレックさんに、もう数日お休みさせ

て欲しいとお願いした。

心配を掛けないように精一杯の笑顔で明るく話したが、クレックさんは、ベレニケの痩せた頬を見て

「ゆっくりお休み」と言ってくれた。

スークに行って小麦や野菜、果物、ズーラの為の新鮮な魚もどっさり買い込んだ。

家に帰り魚を煮てズーラに与えた。

ズーラは猛烈なスピードでフガフガと鳴きながら大きな魚をたいらげてしまった。

満足げな顔をして脹らんだ腹をゆさゆさ揺らし陽だまりの一番いい場所を見つけて座りこんで毛づくろ

いをした。

耳を伏せ顔いっぱいに口を開いて幸せそうに大きなあくびをした。

ベレニケはそんなズーラの様子を見ていると硬くなった心がほぐれてゆく感じがした。

ベレニケの方は、食欲はあまりなかった。

モロヘイヤのスープにご飯を入れてやっと口の中に流しいれた。

オレンジを剥いて少し食べると、甘い香りに誘われて昨日の若い兵士の事が思い出された。

ズーラが帰った事を知らせなくっちゃ、そう思い立ってオレンジを数個紙袋に入れた。

教会の脇を通って中庭に出てジェフの部屋の窓の外に立った。

ジェフはちょうど窓に向かって置いてある机で何か書き物をしているようだった。

包帯だらけの右手の親指と人差し指で器用にペンを挟み紙に滑らせている。

額に掛かる柔らかな髪、ほっそりとした面立ちに伸びかかった髭も素敵に見える。

ベレニケは窓の下に張り付いて、しばらくジェフの様子を見ていた。

そして、頬を23回引き上げて微笑む練習をしてから、思いきって窓ガラスをノックした。

ジェフは驚いたように顔を上げた。

ベレニケは同時に笑顔を作ったが顔がこわばって練習のようにうまく笑えなかった。

「バートンさんこんにちは、ズーラは朝に帰って来ました」

そう言って背伸びして窓を開けると、オレンジの入った紙袋を机の上に乗せて一目散に去っていった。

シェフの部屋から見えない木陰まで走ってベレニケは座り込んだ。

上手に笑えたかしら、彼は私の事なんて思ったかしら。

もっと話したいと思っていたベレニケだったが、心臓は

胸から飛び出しそうに高まってそれだけ言うの

が精一杯だった。

一方、ジェフは何が何だか解らなかった。

突然、背の低い若い女が窓の外に表れて何か言って

オレンジ
の袋を置いて走って行った。

それが昨日の砂だらけの女だと気が付くのには時間が掛かった。

大きな目を見開いて自分を見た顔は怒っているような感じがした。

昨日の事と合わせて考えても彼女が怒る理由が理解できなかった。

まったく変な女だ、こっちこそ不愉快なのに。



6 猫の薬                                  アビシニアン物語り 目次へ 

主人が帰ってズーラはもう自分の所へは来ないと思っていたジェフの予想は外れていた。

ズーラは、毎日のように午後になると開け放した窓にピョンと飛び乗って、馴れた様子でジェフの部屋

に入って来た。

尾を上げ壁や机の角に体を擦り付け部屋を一回りして気がおさまると、ジェフの膝の上に乗って丸くな

って眠った。

まるで、ここが私の居場所ですと言うような幸せそうな顔をして寝息を立てた。

自分を慕う小さな命の温かさに、ジェフの気持も安らいだ。

ベレニケはアレクサンドリアに帰ってから毎日のようにテティの所へ行って、遠まわしにジェフの話を

するようになった。

テティは、むろん勘の良いエジプトのおばさんだったので、ベレニケの気持ちに気が付いていた。

娘のように思っているベレニケの恋心を手助けしないはずが無かった。

テティは、子供の世話で忙しいからと、ジェフの身の回りの世話をたまにベレニケに変わってもらうよ

うにした。

ベレニケがシーツを変えに来た時は、ジェフは驚いた。

テティの代わりと言う事を聞いて、無神経でがさつな女が来たのでは何をされるかと、ベレニケの仕事

の様子をじろじろと観察をした。

以外にもベレニケは几帳面にシーツを隅々まで伸ばしホテルのベットメイクのようにぴっしりと皺ひと

つなく整えた。

数日はしかめつらでいたジェフも、きびきびと動くベレニケを見て眉根を寄せる事が少なくなった。

時が過ぎるにつれて、軽い言葉も交わすようになり、オブライエン先生が忙しい時は、包帯の交換もす

るようになった。

ジェフの傷は、手と指を残しては殆ど治っていた。

一番火傷の酷かった右手の中指と薬指がケロイド状になって付いて感覚が戻らなかった。

ベレニケは包帯を外して軟膏を塗って2本の指を、丹念に時間をかけてマッサージした。

指は何をされても自分のものでは無いように手の平にくっいている。

指先は、ゲロイド状の皮膚が突っ張って棒のようになっている。

それでも永い時間をかけてマッサージをされると、じわじわと温かい感じが指の根元に広がってくるよ

うな感じがした。

「その軟膏は何の薬なの?」ジェフが聞いた。

「これはね、ワセリンに猫の毛と干したナツメヤシの実を混ぜたものよ」ベレニケはすました顔で言

った。

「猫の毛にドライフルーツだって、冗談だろ」ジェフは眉根を寄せて言った。

ベレニケは愉快そうに笑って「ごめんなさい、もちろん冗談よこれはワセリンだけ、でも猫の毛が火傷

に効くのは本当なの、古代のエジプトでは猫の毛や体が薬として使われていたのよ」

「猫が薬なるなんて、面白い話しだね」

「古代からエジプトでは猫はとっても神聖な動物なの、だからいろいろな薬として珍重されたのよ、例

えば炎症の湿布剤には猫の糞をロータス、水瓜、ビール、ぶどう酒と合わせた物が使われたそうで・・

・・でもこれは臭そうね。他に面白いのはガグブ鳥の卵と一緒に油の中で猫の子宮を暖めものを混ぜた

湿布薬を禿げの薬として使っていたって話しよ、もちろん昔の話だけど」ベレニケが言った。

「猫の子宮を使うって事は猫を殺すって事?」ジェフが聞いた。

「そんな事をしたら大変よ、昔は猫を故意に殺した者は死をもってその罪を償うのが常識だったから当

然、事故死の猫から取り出したのだと思うわ。」

「猫を殺したら死刑だって、猫がそんなに大事にされていた動物とは驚いたよ」

ジェフは身を乗り出して話を聞いた。

「昔、ここアレクサンドリアで戦車に猫がひかれて死んでしまって、それに怒った民衆が石を投げて兵

士を殺したって話も伝えられているわ」

「おお、なんて凄い話なんだ、猫はまるで神様みたいだね」

「猫はもちろん神様だったのよ、古代ファラオ王朝の頃、ネコは大変な崇拝を受けてね、最初はライオ

ンの顔を持った女神バステトがネコの姿でブロンズ像にされたり、壁に彫刻されたりしたのよ。

もし家で飼っていた猫が死んだら飼い主は喪に服して眉毛を剃り落としたぐらいよ。

「君はずいぶん歴史に詳しいんだね」ジェフが言った。

「私のパパは考古学者なの、パパから聞いた話も多いけど、自分も幼い時は発掘現場の近くに住んでい

から時々遺跡を見に行っていたのよ」ベレニケが言った。

「古代の遺跡、ピラミッドか、僕はエジプトまで来たのに今まで考えた事も無かったよ、アレクサンド

リアに来て
1月以上経つのに、歩いたのはイギリス人居留地と広場の向こうのスークだけだ」ジェフは

ため息まじりに言った。

「ピラミッドはカイロまで行かないと見れないけど、パパが遺跡から発掘した物だったら見せてもいい

わ」ベレニケが言った。

ジェフは、自分が戦線を離脱した兵士である事に引け目を感じながらもベレニケのミステリアスな古代

の話に惹きつけられてしまった。

翌日ベレニケの家で父親のコレクションを見せてもらう約束をした。

ジェフは薬の話から意外な事になったと思っていた。

ベレニケは始めの無作法な女とは印象が違って来たが、得体の知れない感じだった。

父親が考古学者とは想像もしない事だった。

エキゾチックな小麦色の肌に黒い大きな瞳のベレニケは古代の話と同じくらいミステリアスな存在だっ

た。


翌日ジェフがベレニケの家を訪れるとズーラが鳴きながら飛び出して来て出迎えをした。

しっぽを立てて背中の毛をいくぶん逆立て何度も足元に擦り寄った。

「あら、ズーラずいぶん大歓迎ね」ベレニケは笑って言った。

「大好きなパパと同じ匂いがするのかしら」と言ってズーラの真似をして鼻をふんふん言わせてジェフ

の匂いを嗅いだ。

ジェフはこんなに近くに立たれて匂いまで嗅がれては、落ち着かなかった。

何だか、自分の反応を楽しまれているような気がした。

肩ほどもない小柄なベレニケに見上げられて緊張している自分が腹立たしかった。

ベレニケはジェフと目が合うとはっとして顔を赤らめて、下を向いた。

急に距離をとって、父親の書斎へとジェフを案内した。

書斎はまるで博物館のようだった。

カーテンの曳かれた薄暗い部屋の中は埃臭い匂いがした。

部屋の壁に沿って置かれた長いテーブルの上には、青銅製の器や金属や石や木でできた造形物の破片、

人や動物の形をした像、腕輪や首飾りらしい装飾品などが生理されないまま、ごちゃごちゃと置かれて

いる。

木で出来たお面のような飾りものが、妙に薄気味が悪い。

巨大な本棚には天井までいっぱいに本が詰め込まれていた。

「ここに在る物はパパが発掘したものよ、倉庫にも沢山あるわ」ベレニケが言った。

「この小さなミイラの形をした人形はウシャブティと言ってね、墓に埋葬されていた像なの、埋葬され

た位の高い者の従者の人形で、来世で必要になった時に死者の身代わりとなって働いてくれると考えら

れていたらしいわ」

「ずいぶん沢山あるね、死んでも家臣に囲まれていたって事だね」

「古代エジプトでは、来世を現世の延長と考えていたの、だから埋葬品は来世でも日々の暮らしに困ら

ないようにと考えられていてね、王様のお墓には
1000体近くのウシャブティが出土された事もあったそ

うよ」

ウシャブティと呼ばれた小さな像には、細かい装飾が施されていてそれぞれが違った顔立ちをしてい

た。

興味深かったのは大小の青銅製の器で、表面にはびっしりと象形文字が描かれている、何とか意味がわ

からないかと熱心に見入ってしまう。

出土品はどれを見ても、とても手がこんでいて美しい形をしている。

「このブロンズの像が猫の姿をした女神バステトよ」ベレニケが黒い像を指差した。

その像は、古代の服装をした人の体に耳のピンと立った猫の頭が付いていて、足元には4匹の仔猫が行儀

よく座っている。

穏やかなその表情から優しい神様だった事が感じられる。

「バステトは恵みを与える神様なの、始めはライオンの顔をしていたバステトが時を経て、猫の姿をし

受胎と豊饒の神になって行ったのバステトは月だけでなく太陽の表情も持った女神で、古代の人々

は猫の反射する目の中に昼間の太陽を見ていたの、そして猫は太陽神であるラーの化身として、夜を支

配する恐ろしい暗闇の悪魔であるアポプと毎晩戦っていたと信じられていたのよ」ベレニケはブロンズ

の頭を撫ぜながら言った。

「猫の目を通して昼間の太陽を感じるって神秘的な話しだね、この女神様の顔はズーラに似ているね」

ジェフが言った。

「それを聞いたらズーラが喜ぶわ」名前を呼ばれたズーラは耳をねじってベレニケの方に向けて何でも

解っていますと言うような顔をした。

二人は猫の得意そうな顔を見て大笑いをした。

ベレニケが本棚の前のテーブルに、熱い紅茶とはちみつのたっぷりかかったバスブーサ(お菓子)を用意

したので休憩する事になった。

銀色のポットに入った熱い紅茶を小さなグラスに注ぐ。

ベレニケはたっぷりの砂糖を入れて甘い、甘いバスバーサを食べる。

ゆったりとした時間が流れてゆく。

「お父様は、今日はお出かけですか?」砂糖を入れない紅茶を飲みながらジェフが言った。

ベレニケは困ったような顔をして「パパはクリスマスの前に出かけて行って帰らないの」と言った。

「ずいぶん永くお出かけですね」ベレニケの顔色を注意深く見ながらジェフが言った。

ベレニケはしばらく目を伏せて紅茶のグラスから立ちのぼる湯気を見ていたようだった。

そして唇を噛み締めてから話し始めた。

「半年もパパとは連絡が取れないの、12月の末に23日で帰ると言ってカイロに出かけて、もちろんパ

パが行きそうな場所には連絡を取ったわ、私もカイロまで探しに行ったけど手がかりが無くて」ベレニ

ケの黒い瞳が潤んでいた。




7 カイロへ                             アビシニアン物語り 目次へ 

ベレニケの家から帰るとオブライエン先生が待っていた。

「先生お待たせしてすみませんでした。」

「ああいいよ、私も今来た所だから、サイモンのコレクションを見に行ったそうだね」オブライエン医

師が言った。

「ベレニケさんのお父上のコレクションは、とても珍しい物ばかりで時間が過ぎるのをすっかり忘れて

しまいました」ジェフが言った。

「ベレニケからサイモンの話は聞いたかい?」とオブランエン医師はパイプタバコに火を点けながら言

った。

「行不明だそうですね、ご心配の様子でした」

「ベレニケも可愛そうな子じゃ、実の両親はエジプト人なんじゃが、ベレニケが子供の頃に発掘の事故

で亡くなってしまってな、発掘現場の責任者をしていたサイモンが引き取って育てているんじゃ」

「ベレニケさんにはお父様意外に身寄りが無いと言う事ですね」とジェフが言った。

「そうなんじゃ、その父親が行方不明ではなぁベレニケが可愛そうじゃ」オブライエン先生はグレイの

目をしばいた。

そして、八の字の口髭をもごもごと左右に動かして言った。

「ところで、今日ここに来た肝心の用件じゃが、君の傷は炎症も納まったしここでの治療は、これ以上

は無理かもしれん、中指と薬指が離れて曲がらない事には戦地へ戻るのは無理じゃろう、私から軍に連

絡をして負傷兵しとてイギリスに戻る手続きをしょうかと思っている。」

「先生、2本の指の繋がった部分を切り離す事は出来ないのでしょうか、指の感覚は少しずつですが戻

っているような気がします、僕はどうしてもアビシニアに行って戦いたいのです。」ジェフが言った。

オブライエン医師は、パイプタバコの煙をゆっくりと吐いて暫く考え込んで「ふうむ、君の気持ちは良

くわかったカイロの病院とも連絡を取って手術が出来るかどうか聞いてみょう」と言って帰って行っ

た。

ジェフはどうしても、このままイギリスに帰る訳にはいかないと思った。

イギリスに帰っても自分を迎えてくれる職場など無い。

日雇いの仕事を求めて、毎日ロンドンの町をうろつくのはこりごりだった。

母に心配を掛ける訳にもいかなかった。

軍隊は、仕事と食事と住居をも与えてくれる、自分には最高の場所だ。

今は何としても、軍隊で自分の居場所を見つけて行くしかないと思った。


数日後、オブライエン先生からカイロの病院で手術が出来ると連絡があった。

カイロまでの道案内と通訳をベレニケが引き受けてくれた。

スークで野菜を売っている人の弟が明日カイロの郊外で開かれるラクダ市にラクダを買いに出かける。

オブライエン先生は、そのトラックに乗せてもらえるように話をつけてくれていた。

夜更けにアレクサンドリアを出たトラックは、デルタ地帯の畑を抜けて走る。

ジェフとベレニケはトラックの荷台に座って毛布に包まっている。

悪路を走る車の振動は、心地よいものでは無いが濃紺の夜空には満天の星が降るようにきらめいてい

る。

どこまでも続く小麦畑の道をトラックのライトだけが、漆黒の闇を切り裂いて進んで行く。

ベレニケの横顔が闇の中に黒いシルエットとなって浮かんでいる。

ジェフは、何か話そうかと何度も思ったがうまく言葉にならなかった。

数日前に訪れた、ベレニケの家での事を思い出す。

セピア色の埃臭い書斎に置かれた数々の古代の品々。

ベレニケの潤んだ瞳が頭を離れない。

何と声を掛ければ良いのだろう、どんな言葉でなぐさめれば良いのだろう。

一人ぼっちのベレニケの気持ちを考えると、何かしてあげたい気持ちでいっぱいだった。

「ズーラはお留守番で膨れ面だったわ」ベレニケが言った。

「ズーラは君の大事なパートナーだね」ジェフが言った。

「そう、とっても大事な猫なのパパが私の16歳の誕生日に無理して手に入れたくれたのよ」

「お父さんの事で大変な時に一緒に来てくれてありがとう」ジェフ言った。

「いいの、パパの腕時計を買った人がカイロに居るの、前にも会いに行ったけど留守で逢えなかった

の、ちょうど私もカイロに行きたかったところだから」

「何か手係がつかめるといいね」

ベレニケは、硬い笑顔を作ってきっと大丈夫と言った。

ジェフは、辛い時に無理して笑う母の笑顔を思い出した。

気丈に笑うベレニケを守ってあげたい気持ちで一杯だった。

トラックは、デルタの小麦畑を抜けてナイル川沿いの道を南へ向かって走る。

二人はいつの間にか眠り込んでトラックの揺れに身を任せていた。

トラックの止まる気配で目を覚ますと、地平線に太陽がほのかな色を染め始めていた。

運転手と助手席のエジプト人は、少し高くなった空き地に小さなマットを並べて敷き、ひれ伏して朝の

祈りを捧げる。

イスラム教のコーランの朝の祈りがおこなわれる。

太陽は次第にその姿を現し、大地に色を与える。


明るくなった景色の中、遠く南西の砂漠にピラミッドが

見える。

気温は太陽の目覚めにつれて、どんどん温度を上げてい

く。

暑い一日の始まりだ

朝の道を頭に籠を乗せて歩く女や、ロバに荷物を付けた人が通り過ぎる。

ラクダが人を乗せてのそのそと歩く。

前方に、土煙と騒々しい動物の鳴き声が聞こえた。

トラックは、カイロ郊外のラクダ市に到着した。

朝もやの中、ひしめき合う数百のラクダの群れがいた。

鳴き声と埃と糞の匂いで会場は騒然とした雰囲気だった。

このラクダ達の殆どは、スーダンやソマリアから国境を越えて砂漠を旅して来たものだと言う。

ラクダの群れは動けないように膝を縛ってあるが、興奮したラクダは片足を持ち上げたまま飛び上がっ

て危険なダンスを踊り、悲しい鳴き声を上げる。

二人は、トラックを降り運転手にお礼を言ってわずかな、お金を渡した。

ここのラクダは殆どが食用で、一割程度の若くておとなしい運の良いラクダが農家に引き取られ、畑で

水車を回したり人を乗せたりして働き手として生き延びるとベレニケが教えてくれた。

おとなしく草を食べるラクダを見ながら、乗り合いの馬車でカイロ市内へと向かった。


ジェフを病院まで送り届けたベレニケは、その足でハーン・ハリーリ市場の骨董屋へ向かった。

迷路のような、入り組んだ細い道を手書きの地図を片手に間違えないように進む。

一度来た場所とは言え同じような店が幾つも続く市場は地図なしには進めない。

道の両側には金銀細工や、まがいもの彫像などを置いた店が延々と続く。

ベレニケは、物売りの声にも振り返らず幾つもの曲がり角を通って市場の奥にあるリハードさんの

骨董屋に辿り着いた。

1ヶ月前に来た時には留守で開かなかった扉をおそるおそる押してみる。

チャリンとベルの音がして重い木のドアが開いた。

店内は、薄暗くひんやりした空気が流れている。

本や骨董品がごちゃごちゃと置かれ、天井から吊るされた籠や銅器にぶつからないように奥に入ると、

オウムのギャアギャア鳴く声が聞こえた。

「どなたかな?」と声がして、ゆったりとしたガラベーヤ(エジプトの民族衣装)を着た初老の男が姿を

現した。

ベレニケは、ていねいに挨拶をして自分がサイモン・マリオットの娘で父が行方不明になった事、時計

を売った時のいきさつを教えて欲しいと言った。

「それでは、マリオット博士はここに来た後から足取りが解らんのだな」

「はい、父は12月23日まで泊まっていた宿を出て24日にここで時計を売って・・・・・なぜ父は時計

を売ったのでしょうか」

「お嬢さんは、ベニ・ハッサンの墓地から猫のミイラが大量に出土されたのをご存知かな?」リハード

さんが言った。

「はい、私も先月リハードさんの後を追ってベニ・ハッサンまで行きました、残念ながらすれ違いでお

逢い出来ませんでしたね」ベレニケが言った。

「それは苦労を掛けたね、ベニ・ハッサンは酷い有様だったろう、猫のミイラを根こそぎ掘り出して20

トンも肥料として売ってしまったんだからな、
バステトの神様もお怒りだろう。

ベレニケがベニ・ハッサンを訪れた時はすでに、ミイラの運び出しが終わってから何年も過ぎていたの

に関わらず、砂漠にはミイラを包んでいたらしい布の切れ端や、ミイラの破片があちこちに落ちていて

悪臭が漂っていた。

それでも、ミイラと一緒に埋葬されている美術品を探す現地の人々はまだ根気良く土を掘っていた。

父は、30万体もの猫のミイラが持ち出し規制も無く掘り出されてしまった事に反対し政府や各方面に働

き掛けていた事をベレニケも知っていた。

「今はすっかりあの有様だから、もう期待出来る美術品も無いと思っていたら、少し離れた場所から素

晴らしい猫のブロンズが発見されてな、それをマリオット博士に売ったのだが、お金が足りなくて腕時

計と交換したと言う訳なんだ。」リハードさんが言った。

「父はその後、何処へ行くと言っていましたか?」ベレニケが言った。

「行く先は何も聞いておらんな・・・・・そう言えば、猫のブロンズはプレゼントだと言っていたな」

ベレニケはリハードさんの言葉を聞いて、父が家に帰るつもりだったのを確信した。

猫のブロンズはきっと自分へのクリスマスプレゼントだったのだろう。

大事な時計を手放してまで自分への贈り物を買ってくれる父の温かさをベレニケ自身が一番知ってい

た。

「父の時計はまだここにありますか?」ベレニケが聞いた。

「それが残念な事に、すぐに売れてしまってな、買った男は覚えているから店に来たら買い戻してあげ

ようか
?

是非お願いしますとベレニケは言った。

                                    アビシニアン物語り 目次へ 

8 猫のミイラ

夕方になってジェフは病院での手術が終わり、待ち合わせの宿に戻って来た。

手術は成功して2本の指の間は切り離され、やっと離れた中指と薬指にグルグルと包帯が巻かれてい

た。

「まだ痛みはあるの?」ベレニケが言った。

「このぐらいの痛みは大丈夫だよ、戦地に行けばこんな傷は傷のうちには入らないよ」ジェフが言っ

た。

「傷が治ったら、アビシニアへ行くのね」

「もちろんそのつもりだよ、仲間は今もアビシニアで戦っているんだ、早く指を動くようにして行きた

いよ」

貴方も居なくなってしまうのね、ベレニケはそう言おうとしたが言葉を飲み込んで視線をそらした。

この人を好きになってはいけない、すぐに遠くに行ってしまう人だもの、いくら思っても辛いだけ、ベ

レニケは自分を納得させるように心の中で何回も自分に言い聞かせた。

「お父さんの手掛かりは何かつかめたの?」ジェフが言った。

ベレニケは、リハードさんのお店での事を細かく話して聞かせた。

ジェフは、マリオット博士の失踪はベニ・ハッサンのミイラ持ち出し規制の話が何か関係しているかも

しれないと考えた。

規制が掛かれば、商売をしている人は損をする。

エジプトから売られた大量の猫のミイラがリバプール(イギリス)に陸揚げされ燃料として売られた事は

ジェフも聞いた事があった。

何かの事件に巻き込まれたのかもしれない、ジェフ嫌な感じがした。

「ベニ・ハッサンの猫のミイラに関して書かれた書類は何かあるかな?」ジェフが言った。

「パパの書斎の本棚にあったはずよ、何か気に成る事でもあるの」ベレニケが言った。

「気のせいかも知れないが調べてみたいんだ、明日アレクサンドリアに帰ろう」


カイロからの帰りはナイル川を下る川舟に乗せてもらった。

アレクサンドリアまで輸出用の木綿糸を運ぶ船で、運の良い事にイギリス人居留地のアトランテック

貿易と取引が在る船だった。

川舟でのナイル川下りは快適だった。

緩やかなナイルの流れに船は滑るように進む。

川面は夏の強い日差しを浴びてきらめき、三角の帆は風を受けてはらむ。

川岸で水遊びをする子供達、羽を休める野鳥の群れ、網を入れて魚を獲る漁師達。

船の甲板に積まれた、麻袋に寄りかかってのんびり川面を眺める。

ベレニケはいつの間にか眠り込んで、ジェフの肩に寄りかかって軽い寝息をたてる。

ジェフは永い時間、ベレニケの髪の甘い香りに包まれ時を過ごした。

彼女のふせた長いまつげを、ふっくらとした唇の曲線を愛しく見つめていた。

西の空が燃えるような夕焼けに染められ、川面に赤い色を写す。

船は、ナイル河を出て地中海に入り、沿岸にそって西に舵をきって進むとその先にカイト・ベイの明か

りが見えた。

ジェフは、数ヶ月前に艦船から期待に胸躍らせて見た岬の突端に眩く光るカイト・ベイ要塞の塔を思い

出した。

あの日の事を思い出す度に、後悔と悔しさが繰り返しこみ上げて胸いっぱいになった。

船から下りてスークでローストチキンとアエーシ(パン)、オレンジを買ってベレニケの家に行った。

戸口の前でズーラがちょこんと座って待っていた。

「ズーラはテレパシーでもあるのかしら、ちゃんと帰りが解るのね」ベレニケは、嬉しそうに微笑んで

猫を抱き上げた。

猫は喉を鳴らして、頭をグイグイとベレニケの胸に押し付けて甘えた。

ズーラは、家の中に入って落ち着くと目ざとくローストチキンの包みを見つけ袋に鼻をくっけて、ふん

ふんと匂いを嗅いだ。

「ズーラ、お留守番のご褒美よ、あなたの好きなチキンにオレンジも買って来たわ」ベレニケが言っ

た。

「猫が好きなのは、チキンだけだろ、オレンジが好きなのは僕だよ」ジェフが言った。

「ズーラは、オレンジも好きなのよ、変わった猫でしょ、さあ一緒に食事にしましょう」ベレニケがチ

キンを切り分けると、猫は丸々したチキンのモモ肉をペロリとたいらげ、まるでデザートを食べるよう

にオレンジの房も美味しそうに食べてしまった。

ベレニケは包帯で手がうまく使えないジェフの為に、チンキを骨からはずし、オレンジの皮をナイフで

剥いて、ひと房ずつ切り離した。

甘いオレンジの香りが部屋中に立ち込めて、二人は少しだけ幸せな気分に浸った。

食事の後、父親の書斎に行って猫のミイラついて書かれた文章を探した。

ベレニケが天井まである本棚の本の中から、ピックアップした本がテーブルにうず高く積まれる。

ジェフは、ソファに腰を深く埋めて黄色くなった古いページをめくる。

膝の上には、丸くなったズーラが満腹の腹を上下に動かして眠る。

ベニ・ハッサン出土、猫のミイラ。

○一般的な制作の方法

・猫を天然ソーダ(ナトロン)に漬ける。

樹脂にひたした包帯と布で猫を巻き外形を整える。

・包帯を幾重にも巻いて頭まで包む
(頭には鼻孔、口、眼を彩色で描く場合もある)


・ゴム液に漬けた三角の布で耳を作り付ける


ベニ・ハッサン南地区 NO.1028 猫のミイラ

長さ26センチ、幅8センチ 非常に若い猫。

包帯は黄色の布で非常に厚く、斜めにも幾重にも巻いてある。

   頭には布製の直立する耳、頭部の飾りは無くなっている。


NO.1028 棺

エジプトイチジクの木製。高さ49センチ

枢は坐った猫の形をしている。

外面はすべて白く塗られていて、輪廓と細部は黒で目立たせてある。

ベニ・ハッサン南地区 NO.1030 猫のミイラ

長さ46センチ、幅9センチ

外面の包帯は横向きに、長い褐色の幾枚もの布が巻いてある。

頭部両側には直立する布製の耳

頭部を巻いた布の上に猫の目、鼻、口が描かれ、赤と黒の線の縞模様が描かれている。


NO.1030 棺

杉製。高さ65センチ

棺は坐った猫の形をして、中心から両がわに相称的に割れる仕掛けになっている。

頭部は猫というよりはライオンに近く、鼻面は短かく広い。

体は白く塗られていて、脇腹、爪などは赤の線で目立たせてある。

頸に、青と赤の輝石のついた編んだ紐がかけられている。


猫のミイラに関するノートには、固体別に細々と膨大な数が書かれていた。

本やノートの中には英語で書かれた書物の他にも、アラビア語や象形文字のヒエログリフで書かれた物

もあって、ジエフにはまったく意味が解らなかった。

ベレニケは、アラビア語も英語もヒエログリフまでも理解できるようで熱心に父親の残した資料を読み

あさっていた。

「ベレニケきみは、アラビア語も英語もヒエログリフまでも解るんだね」ジェフが感心して言った。

「私は、学校へは行かなかったけどいろいろな事をパパが教えてくれたわ、ヒエログリフは子供の頃か

らお絵描きして遊んでいたから自然に覚えてしまったの」ベレニケが言った。

「そう言えば、アラビア語で猫は何て言うの?」ジェフが言った。

「あら、ズーラが自分の事をいつも言っているでしょ、マァウって」ベレニケは悪戯っぽく笑った。

「猫がマウだって、エジプト人には猫の鳴き声がマウって聞こえるのかい、国が違えば聞こえ方も違う

んだなあ僕にはミャオとしか聞こえないよ、ベレニケ君はどう聞こえるの
?

「私は、イギリス人でもありエジプト人でもあるの、そしてイギリス人でもエジプト人でも無いの・・

・・・ははは、変な事を言っちゃったわね、気にしないでね、猫の鳴き声はやっぱりマウって聞こえる

わ」ベレニケの顔は笑っていたが、言葉の奥に在る深い、重い意味をジェフは感じとっていた。

ズーラはジェフの膝から落ちそうなほど体を突っ張って伸びをしてのん気な顔で、大あくびをしてまた

丸くなって眠ってしまった。



9  夢の中                                       アビシニアン物語り 目次へ 

カイロから帰っての数日、ジェフはベレニケの家に行って書斎での調べ物に午後を費やした。

専門書やマリオット博士の書いた書類を探しても失踪に直接関係がありそうな記述は見つからなかっ

た。

カイロで手術を受けたジェフの指は、オブライエン医師が治療を続けたが2本の指の感覚は戻らず自力

では曲がらない状態だった。

ジェフの中で焦りと絶望がふつふつと湧き上がってきた。

このままでは、イギリスに送還になってしまう。

銃の引き金に指も入らないような兵士は軍には必要がない。

ベレニケの事も自分の事も何一つうまくいかなかった。

日を増すごとにジェフは無口になって考え込む日が多くなった。

ある晩ジェフは、夢を見た。

古びた鉄の柵の向こうに続く暗いアーチ型の入り口。

明るい日差しの中から暗い影の世界に吸い寄せられて行く。

白と黒のアラベスクの模様の壁。

こここは・・・・・カイト・ベイ要塞。

そうだ、週末にベレニケと行ったカイト・ベイだ。

暗闇の先にベレニケの姿が見える。

水色のスカートが急な階段の闇の中に消えて行く。

ベレニケ、待って、行かないで。

ジェフは夢の中で叫ぶ。

追いかけても、追いかけてもベレニケは捕まらない。

水色のスカートの裾が闇の中で、ひらひらと花のように揺れる。

長い廊下を駆け抜け、角を曲がり幾つもの階段を駆け上がる。

砲台跡の小窓から日の光がこぼれる。

ベレニケの姿が光の中に消えて行く。

ジェフの意識は、自分のベッドの上に引き戻された。

窓の外には消え入りそうな三日月が夜明け前の夜空に、ぶら下がっている。

汗で濡れたシャツを脱いで、窓を開けて外の風に身をさらす。

物音ひとつ聞こえない静かな夜。

週末にベレニケと行ったカイト・ベイ要塞での事は楽しい思い出だった。

青い空をバックに堂々とそびえ立つ建物は要塞の名にふさわしい巨大な石の建築物だった。

ひんやりした暗い室内では、ベレニケはふざけて隠れんぼうをして、ジェフを笑わせた。

急な階段を登って辿り着いた、石作りの白い展望台から見た空の青、海の青、弧を描いて続く海岸線。

どれも素晴らしかった。

カイト・ベイに続く海岸の岩場では、子供達が楽しそうに海に飛び込んで水飛沫を上げていた。

ベレニケとジェフも裸足になって岩場で水遊びを楽しんだ。

久しぶりに、何もかも忘れて楽しんだ。

ベレニケが岩場で少し足を切った。

ジェフは彼女を背負って海岸通りを歩いた。

細い腕、背中に当たる胸の感覚、首筋をくすぐるベレニケの吐息。

自分の意思とは無関係に、目はいつもベレニケを追ってしまう。

気が付くとベレニケを見つめる自分がいる。

それでも、ジェフは自分の気持ちを認める気にはなれなかった。

カイト・ベイから見た青い地中海、かなたに続く大西洋。

その向こうの祖国イギリス、そこに戻る時が近づいている事を感じていた。


夜に目覚めたジェフは、昼近くまで寝入ってしまい、猫の鳴き声で目覚めた。

窓の外を見るとズーラが鳴いて窓ガラスをカリカリと引掻いている。

こんな時間にズーラが来る事は珍しい。

たいていの猫は、太陽が高くなって暑い時間に出歩かない。

涼しい木陰や室内が、猫は一番気持ち良い場所だって知っている。

窓を開けてズーラを入れると猫は一目散にテーブルの上に昇りカップに残っていた紅茶をピチャピチャ

と舌ですくい上げて旨そうに飲んだ。

焼き菓子の袋に鼻を突っ込んで、猛烈に食べ始めた。

「おい、ズーラ今日はずいぶんハラペコだな」ジェフは猫の様子を呆れて見た。

ベレニケは・・・・と言いかけて昨夜の夢を思い出した。

胸騒ぎがした。

説明の出来ない嫌な感じがして、ジェフはズーラを抱いてベレニケの家に向かった。

古びた鉄製のノッカーを鳴らしてもベレニケの返事は無い。

ドアは硬く閉まって、鍵がかっているようだ。

ジェフは、慌てて走って来た自分に呆れて帰るろうかと思ったが、中庭に回って窓から中の様子を見る

事にした。

ズーラはジェフの腕の中からするりと抜け出し、中庭の木から素早く枝を登って開いた高窓から部屋の

中に入って行った。

レースのカーテンの向こうにマリオット博士の書斎が見える。

壁のような本棚、あめ色のソファ、その向こうのテーブルに置かれた沢山の古代の品々。

高窓から部屋の中に入ったズーラが書斎にやって来て鳴いている。

ソファの向こう側の何かに何度も体を擦り付けている。

水色の・・・どこかで見た色。

ジェフは昨夜の夢の中で揺れていた水色のスカートを思い出した。

ソファの向こう側の床に見えるのは、ベレニケが着ていた水色のスカートの色だった。

「ベレニケ、ベレニケ」窓ガラスを強く叩いてベレニケを呼ぶがベレニケは起き上がらない。

水色のスカートが時々、ビクビクと変に動く。

ジェフは石を拾い窓ガラスを割って鍵を外し部屋の中に飛び込んだ。

ベレニケはソファの下に腹を突き出すようにして、全身を弓なりにさせて倒れている。

腕は幼子のように胸の前で曲げられ、強く握られた指は白くなっていた。

痙攣が全身を襲って、ガクガクと人形のように動く。

ジェフは急いでベレニケを抱きしめて名前を呼んだがベレニケは自分の意思とは無関係に体を震わせる

だけだった。

ベレニケが死んでしまう。

ベレニケ、ベレニケ、ジェフは涙と汗でぐちゃぐちゃなりながら、ベレニケの痙攣を止めさせようと強

く、強く抱きしめた。


オブライエン先生が駆けつけて、ベレニケの病気は破傷風である事が解った。

破傷風はアフリカ大陸では珍しくない病気で、戦地でも破傷風で命を落とす者も多い。

「出来る限りの処置はしたが、後は本人の体力と神様のお力じゃ」とオブライエン医師は肩を落として

戻って行った。

テティも駆けつけて、泣きながらベッドを整えたりベレニケの体を拭いたりして世話をした。

発見が遅ければ破傷風が助からない病気だと言う事を皆、知っていた。

ざわざわとなつめやしの葉を揺らして風が吹きぬける。

遠くで犬の鳴く声が聞こえる。

いつの間にか日が暮れて、部屋に暖かな色のランプが灯る。

ベレニケは、痙攣が治まって静かに眠っている。

体の中では小さな悪魔との壮絶な戦いが行われている。

破傷風の原因は、岩場で作った小さな傷だった。

ほんの僅かな傷の表面はすぐに乾き治ったように思われていたが、本人さえも気が付かないうちに傷の

中に入りこんだ悪魔は、その数を増やし数日のうちに、ベレニケの体を蝕んでいった。

ジェフはベッドの横でかた時も離れず、ベレニケの手をにぎっていた。

「どうかベレニケをお助け下さい」ジェフは繰り返し神に祈った。

胸がわしづかみされたように、痛かった。

自分の火傷の痛みよりも辛い痛みを胸の奥に感じた。

ジェフは溢れ出る感情を抑えられずに、眠っているベレニケに話かけた。

「ベレニケ愛している・・・どうか目を開けて僕を見て」

ベレニケの足元ではズーラが安らかな顔で丸くなって眠っていた。

10  アガパンサスの花                    アビシニアン物語り 目次へ 
 

ベレニケは3日の間生死の境を彷徨い続けた。

オブライエン先生は、朝と晩にベレニケの様子を見に来てくれた。

テティは日に何度も来て、こまごまと世話をしてその度に涙を見せていた。

ジェフは食事もろくにとらず、ベレニケの側で祈り続けた。

今のジェフに出来る事は祈る他になかった。

4日目の午後、ジェフがベレニケの手を握ったまま居眠りをしていると、ベレニケは静かに目を覚まし

た。

暗い闇の世界から戻った部屋には明るい日差しが降り注ぎ、窓の外には緑の葉が太陽に光を浴びて光っ

ていた。

目の前の椅子には、疲れきった髭面のジェフが椅子にもたれて眠っていた。

ベレニケは、しばらくの間ジェフの寝顔を見ていた。

まっすぐな眉毛、無精髭の生えたザラザラした頬、柔らかいブラウンの髪の毛。

夢の中で感じていた、ぬくもりは彼の手の暖かさだった。

ベレニケは握られていたジェフの手を自分から握り返した。

ベレニケは2週間を過ぎる頃だんだんと元の元気なベレニケに戻っていった。

あの酷い、硬直状態があったにも関わらず体への後遺症はなかった。

死と直面した事によって、後遺症が残ったのは二人の心の中だった。

ジェフはイギリスに送還される日が近い事は解っていたがもうベレニケを諦める事など出来ない思いで

いっぱいだった。

失う事の怖さを2度と繰り返したくないと思った。

自分の思いをベレニケに伝えよう、そしてベレニケをイギリスに連れて帰ろう。いや、それが出来なけ

れば自分がアレクサンドリアに残ろう。

気持ちは脹らんでも、実際はどれも難しい事だった。

ジェフはイギリス軍の兵士としてアレクサンドリアに来ている以上は、勝手に軍を離脱してアレクサン

ドリアに残る事など出来ない。

ベレニケをイギリスまで連れて帰る事など軍に頼めるはずも無くお金も無い自分には夢のような事だっ

た。

まして、ベレニケが行方不明の父親を諦めて自分とアレクサンドリアを離れるとはとても思えなかった。


夏の暑い太陽が傾きかけて、北の海から涼しい風が吹くと町はやっと休息の時を迎える。

ジェフはベレニケを誘って、マリュート湖へ行った。

自転車の後ろにベレニケを乗せてセピア色の街を抜ける。

石畳の道を、歓声を上げてベレニケがはしゃぐ。

自転車の前の籠にはズーラが鼻先に風を向けて行儀良く座っている。

紀元前に作られた石作りの城壁を抜けると、目の前に海のようなマリュート湖が見える。

自転車を湖畔に止めて草原に腰を下ろす。

あたり一面には、薄紫のアガパンサスの花が北風に吹かれ

て揺れている。ズーラは、はりきって飛び出して行って、

アガパンサスの花の群れの中をガサガサと歩き回ってい

る。

上げた尾が花の群れ中で揺れている。浅く巨大なマリュ

ート湖は、湖面にさざなみをたて日の光を浴びて金色に輝

いている。

アガパンサスの花をひと房折ってベレニケの髪に挿した。

ナイルの可憐なユリの花がベレニケの黒い髪を飾る。

二人は自然に寄り添って、永いキスをした。

太陽は西に傾き、ナイル川に取り残された湖は茜色に染まった。

ジェフが帰りの支度を始めようとした時ベレニケが言った。

「今日の事は私の大事な思い出として、心の中の箱に入れて鍵をかけておくわ」

「ベレニケ、君の事を思い出にするつもりは僕には無いよ」

「もうすぐ僕はイギリスに帰還するだろう、でもアレクサンドリアに必ず戻って来るよ、待っていてほ

しい」ジェフが言った。

「約束は嫌なの・・・・」

「もう約束をして待つのは嫌なの」ベレニケが言った。

「パパはクリスマスに帰ると約束をして戻らない、貴方はいつ戻ると約束をするの?」ジェフは答えに

困ってベレニケを見つめた。

「貴方に手紙を書けば貴方からの返事を待つし、貴方がアレクサンドリアに戻って来ると言えば、私は

毎日港で船を待ってしまう。

でも、待つだけの毎日は、もう嫌なの、だからお願い約束はしないで・・・」

そう言ってベレニケは足元に擦り寄ったズーラを抱き揚げ顔を寄せた。

猫は、グルグルと喉を鳴らして彼女に寄り添って甘えた。

ジェフはマリュート湖でベレニケが言った言葉を繰り返し考えた。

ベレニケの気持ちは痛いほど解る。

彼女の言った言葉は事実だったし、現実的で冷静だった。

辛い思いを重ねたベレニケの気持ちを考えると、自分が余りにも軽率に思えた。

何の保障もなく口にした言葉がベレニケを苦しめた事は辛い事だった。

それでも、ベレニケへの溢れる思いはどうしても断ち切れなかった。

残された日々でアレクサンドリアに戻る方法はないか色々考えた。

考古学研究員のブレアさんに発掘の仕事に参加出来ないかと聞いてみたが、まずイギリスで大学の推薦

を受けなければエジプトに渡航する事も出来ないとの返事だった。

ジェフは港で入港する貨物船の船長に船の仕事はないかと訪ねてもみたが、右手が動かない事を理由に

断られてしまった。

落胆の日々を過ごしていたジェフに、良い知らせがもたらされた。

アトランテック貿易がイギリスでの荷受の作業でトラブルが続き困って、荷受を任せられる信用ある

人物を探していると言う。

ジェフは早朝アトランテック貿易を訪ねた。

アトランテック貿易に入ると、社長のクレックさんが奥の机から立って出迎えてくれた。

事務員が2人と社長だけの小さな会社だ。

「やあ、ジェフ良く来てくれたね」めがねの奥から皺だらけの目が笑った。

「運送会社のロートンさんからお聞きしたのですが、荷受の仕事の事をお聞きしたくて来ました」ジェ

フが言った。

「君がイギリスに帰るって話を聞いてね、もう時期は決まったのかい?

「いえ、まだハッキリとはしていませんが軍からの連絡はもうすぐあると思います」

「そう、それで帰還後の仕事が決まっていないのだったら、イギリスでの荷受作業を手伝った欲しいん

だ、最近こちらで輸出した商品が途中で消える事件が度々起きて困っているんだ」

「私は、ご覧のとおり右手が少々不自由ですがこんな体でお役に立てますでしょうか?」ジェフが言っ

た。

「荷受と言っても伝票と荷物の確認だから心配は無いと思うよ、何よりも誠実に仕事をしてもらう事が

大事なんだが」ロートンさんが言った。

「自分としては、任せて頂ければ、精一杯やらせてもらうつもりです。」

ロートンさんは、右手を出して握手を求めた。

ジェフはその手をしっかりと握って、よろしくお願いしますと言った。

細かい打ち合わせを明日からする事にして、店を出ようとした時、ロートンさんが言った。

「ベレニケに感謝しなさい、君の事を心配して僕の所に相談に来たのだから」

とウィンクをして手を振った。

ジェフは店のドアが閉まる音と同時にベレニケの家に向かって走り出した。

それからの数週間は、二人の人生で忘れられない幸せな時間が続いた。

ジェフとベレニケは、時間の許すかぎり二人の時間を過ごした。

ある時は、お互いの家で。

ある時は、星降る夜空の下で。

ある時は、古代の遺跡を訪ねて。

それぞれの場所で、互いを見つめ合い、感じ合い。

そして、お互いの知らない時間を沢山の言葉でも埋め尽くした。

ベレニケは小さな子供のようにジェフに質問攻めにした。

「好きな色は? 好きな食べ物は? 好きな言葉は?子供の頃はどんな子だった? お母様の名前は? お父様

の名前は
? 兄弟は何人? ・・・・」

ジェフは一つ一つの質問に丁寧に答え、同じ質問をベレニケにもした。

ジェフはベレニケに、ベレニケはジェフに自分の全てを知って欲しくて、相手の全てを知って置きたく

て、全てを覚えていたくて繰り返し言葉を重ねた。

「ベレニケ、僕はアレクサンドリアに戻る約束はしないよ」ジェフはベレニケを見つめて言った。

ベレニケは黒い瞳をいっぱいに見開いて見つめ返した。

「君の心は僕の家だから、戻るのは当然の事なんだ、自分の家に帰るなんて約束をする人はいないよ

ね。

僕の体はアレクサンドリアを離れイギリスに帰っても僕の心は決して君から離れる事はないのだよ」

ベレニケは小さくうなずいた。

ジェフは、イギリスでの荷受の仕事でアレクサンドリアと繋がっていてれば、再びエジプトの地に来ら

れると言う自信があった。

父親の事が解決すれば、きっと良い道が開けるだろう。

二人は明るい未来を信じる気持ちになっていた。

 

11 ズーラの家出                                  アビシニアン物語り 目次へ 

ズーラは昨日から、なんだか落ち着かない気分がしていた。

背中のあたりがやけに、敏感になってムズムズする。

机の脚や本棚の角やいろんな所に体をすりつけて見るが気分はぞわぞわとするばかりだ。

好物の魚も半分だけ食べて辞めてしまった。

なんだか食欲も出ない。

ベレニケに首筋を撫ぜられると、頭に稲妻が通ったみたいにビリビリして自然に腰が上がってしまう。

もっと、もっと強く撫ぜて欲しい、頭の先から尾までのすべての神経が波打っている。

体の中で何かが騒いでいる。

こんな時に限ってベレニケは忙しそうに出て行ってしまう。

ベケニケは近頃、前みたいに目を見て自分に向かって話し掛けなくなった。

頬をばら色に染めて、目も潤みがちでいつも宙を見ている。

ズーラは体の中の不満を声に出して鳴いてみる。

前足を立てて、ベレニケのスカートにすがりついてみる。

それでもベレニケは気がついてくれない。

そうだ、あの部屋でいい匂いを嗅いで気持ちを落ち着かせよう。

あの匂いに包まれればきっと気持ちも落ち着くはずだ。

猫は、なつめやしの木の下を抜けて中庭の反対側にある建物の窓の下までたどり着き、馴れた様子で後

ろ足で地面を強く蹴って窓の枠まで軽々とジャンプする。

いつもは開いている窓も今日は閉ざされて、はちみつ色の部屋には主はないようだった。

猫はじっと窓枠に座って主の帰りを待った。

日が落ちて隣の家に明かりが灯ってもジェフは帰らなかった。

猫は、夜の空気に鼻をふんふんさせ匂いを嗅いでいたが諦めて、中庭の茂みの中に消えて行った。

それからズーラは、やっと温度の下がった涼しい風を髭に受けて町を歩き出した。

領事館広場の北側にあるイギリス人居領地と広場を越えた南側にあるフランス人居留地を通って注意深く

他の猫達の匂いをかいで歩いた。

体の中で起こっている変化に引きつけられるように、雄猫の匂いを探して歩き続けた。

いつものルートをひと巡りしてイギリス人居留地の教会の草むらまで来るとジャスミンの茂みから黒猫

が出てきた。

この地区を縄張りにしているズーラと顔なじみの黒猫だ。

ズーラが仔猫で、この場所に初めて来た時から黒猫はズーラを優しく迎えてくれた。

顔の黒い毛のところどころに白い毛が混じっている所を見ると、もう相当な年なのだろう。

雄猫にしては体が小さく、他の雄たちのように争い事は好まない平和主義者で

でのんびりした性格の持ち主だ。

黒猫は、ズーラの方へ真っ直ぐに歩いて来てふんふんと匂いを嗅ぐ。

ズーラから漂って来る発情の匂いを感じると黒い毛がゾワッと逆立った。

黒猫はズーラの体に額を摺り寄せて好意を全身で示して、クルクルと回りを回る。

甘い声で鳴いて、ズーラの気持ちを誘う。

ズーラは体の中のムズムズする感じに身を任せたいと思いながら、気持ちとは反対に黒猫から遠ざか

る。

雌猫が生まれ持って授かった本能は、手馴れた女が男をじらすように魅力を振りまきながら雄猫をほん

ろうする。

黒猫は、夜の路地裏を甘く切ない声で鳴いてズーラを追う。

ズーラは小走りになったり、わざと袋小路に入りこんで黒猫を誘いながら、それでも黒猫に身を任せな

い。

黒猫の鳴き声とズーラの発情の匂いを察知した猫達は次々と姿を現した。

濃い色のタビーの若い雄が黒猫とズーラの間に割り込む。

黒猫は少し抵抗したが、体の大きな若い雄の威嚇に簡単に負けてあっさりと後に下がった。

若い雄はまっすぐに尾を上げてズーラに近かずき、ふんふんと匂いを嗅いで目を細める。

隙を見てズーラに飛び掛りたい様子を見せるがタイミングが計れない。

ズーラは無関心に毛づくろいをして座り込んでから、また夜の町を歩き出す。

黒猫は仕方無く、若い雄の後に付いてズーラを追って歩く。

ズーラを先頭にした行進は昼も夜も続き、次々と雄猫が引き寄せられて、3日後の夜更けには4匹もの

雄猫が後を追うようになった。

ズーラは歩きながらわずかな残飯を食べただけでお腹も空いていたし、足も腰もへとへとだった。

それでも体を動かす本能は休んではくれなかった。

細い路地から塀に飛び上がって、隣の空き地に飛び降りる。

廃屋のガラクタ置き場に潜り込んで、しばらくの休息を取る。

後に続いている雄達もお互いに権勢し小競り合いながらも辛抱強くズーラの気持ちを得ようとチャンス

を待ち構えている。

若いタビーの雄と太ったタビーの雄猫が、均衡を破ってうなり声を上げ互いに激しくののしり合い始め

た。

雄達のストレスはもう耐え切れない所まで来ていた。

互いの声がますます大きくなって、耳を後ろに倒した若いタビーが跳びかかろうとした時、2匹は急に

視線を感じて後ろに後ずさりした。

空き地を囲む塀の上に、銀色のスポッテッドタビーの見た事もない雄猫がズーラと雄猫達を見下ろして

立っていた。

銀色の雄猫は、背中を丸くして全身の毛を逆立て長い尾を箒のように膨らませた。

金色の目で下に居る雄達を見渡すと、一番優勢を誇っている若いタビーめがけて塀を駆け降りた。

若いタビーは突然の出来事に戸惑っていたが、すぐに銀色の猫との戦闘態勢に入って敵の襲来に身構え

た。

銀色の猫と若いタビーは背中を弓のように持ち上げて、4本の足でしっかりと地面を踏みしめ唸り声を

上げる。

鼻面に皺を寄せ、犬歯をむき出しにして罵り合う。

一瞬、若いタビーが気弱に体制を崩した隙を銀色の猫は見逃さなかった。

まっすぐにタビー目がけて飛び掛って行った。

若いタビーは頭から突っ込んで、戦闘にいどもうとしたが寸前の所で気後れして後ろ足で強く地面を蹴

って向きを変え、背を向けた。

茶色の毛が花火のようにぱっと散って地面に落ちた。

若いタビーは尻に傷を負い草むらに走りこんで尾を丸めた。

他の雄猫達は後ずさりして遠巻きに様子を見ている。

銀色の猫はズーラをしっかり見据えて、小さく鳴いた。

ズーラは銀色猫に見つめられて、ぶるっと体を震わせた。

銀色の猫は、空き地の塀の上にジャンプして塀の上を走り始めた。

ズーラは、魔法にでもかかったように銀色猫の後を追って塀に登る。

体の中の本能に引き寄せられて、前に見える銀色の長い尾を追って走る。

2匹は夜の闇にまぎれて路地を抜け、草むらを横切って廃屋の中庭に辿り着いた。

他の雄達は銀色の猫に圧倒され誰も後を追わなかった。

ジャスミンの花が月の光に照らされて、白く浮かんで見える。

夜露に目覚めた虫達が羽音で音楽を奏でている。

銀色のスポッテッドタビーの雄猫は、頭を低く下げて女王様にお辞儀をするようにズーラに擦りよった。

ズーラは雄猫の匂いをふんふんと嗅いで、満足そうに目を細めた。

雄猫は、甘い声で鳴いて恋の歌を歌う。

体を何度も擦り寄せて、尾を小刻みに震わせて強烈な雄の匂いで雌猫を包み込む。

ズーラは雄猫の匂いに包まれ催眠術にでもかかったように動けなくなった。

雄猫は、ひらりとズーラの背に飛び乗って首を噛んだ。

二匹は、本能の呼び声に従いその身を預けた。

それから2日間、ズーラと銀色の猫は廃屋の回りで過ごした。

ズーラはとても疲れていて、最初の1日はほとんど眠って過ごした。

2匹の猫は寄り添って眠り、お互いの毛を舐めあいグルグルと喉を鳴らして安息の時を送った。

ズーラは、3日目の夜が明ける頃体の火照りがすっかりおさまって、次第に頭がはっきりして来た。

体の中で騒いでいた何かが急に勢いを弱めて元のズーラに戻っていた。

帰ろう、記憶の中で自分を呼ぶベレニケの声がする。

「ズーラ帰っておいで、ズーラ、ズーラ」

猫は髭を風の吹く方向に向けて、鼻をひくひくさせた。

耳をピンと立てて、遠くのなつめやしの木を見た。

そして、前だけを見つめ真っ直ぐにベレニケに向かって走り始めた。




12 オールド・カイロ                            アビシニアン物語り 目次へ 

ズーラが家に戻ってからひと月過がぎた。

真夏の盛りの太陽は、ほんの少しだけ力を弱めて季節は秋へと近づいていた。

猫はすっかり元の生活に戻り、暑い日中は部屋の中か木陰で寝て過ごし気温の下がった夕暮れにイギリ

ス人居領地と領事館広場の回りの狭い場所を巡って歩き、ジェフの部屋を訪ねてベッドの上でひと時を

過ごした。

灰色の雄猫は、あれ以来なわばりを越えてズーラの前に現れる事はなかった。

ジェフはこの頃、アトランテック貿易に行って見習いの為に仕事を手伝っている。

カイロでの手術で指は形だけは正常になったが、中指と人差し指の感覚は戻らなかった。

オブライエン先生はこれ以上、軍への報告を延ばす訳にもいかずジェフの負傷兵としての送還書類を提

出した。

ジェフの帰国は、2週間後にアレクサンドリアに入港する艦船の帰還便に乗船する事が決まった。

アビシニアとの戦闘は激しさを増して負傷者も多数出ていると言う。

イギリス軍の優勢は報じられているものの、狡猾なテオドロス軍は簡単には倒せる敵でなかった。

仲間達はアフリカの灼熱のような大地で、汗と埃に紛れて苦難の日々を送っている。

ジェフは、戦闘にも加わらず帰還する自分を恥じていた。

ベレニケとの恋に幸せな時を過ごした自分が、仲間達に対する裏切り行為をしているような後ろめたい

気持ちがしていた。

部屋で母への手紙を書き終えて窓の外を見ると、なつめやしの街路樹の向こうからベレニケが急ぎ足で

やって来くるのが見えた。

真昼の日差しを浴びて、はあはあと息をつきながらとても急いでいるようだ。

ジェフは窓から体を乗り出し「やあ、ベレニケ」と手を振った。

ベレニケは口をパクパクと動かしているが、息がぜいぜいして思うように声が出ない様子だ。

ジェフは、ベレニケが戸口に辿り着くのを見計らってハイビスカスのジュースをグラスに注いだ。

ドアを開けて汗びっしょりのベレニケにグラスを差し出した。

ベレニケは黙って、ハイビスカスのジュースをいっきに飲み干して大きく息を吐いた。

そして「パパが見つかったの」と目を輝かせて言った。

ジェフは思わずベレニケを抱きしめて二人で喜びを分かち合った。

ベレニケの話ではカイロの骨董屋のリハードさんの所に数日前、猫のブロンズを売りに来た人がいそう

だ。

その猫のブロンズは去年のクリスマスにマリオット博士に売った物と非常に良く似ていたので持ち込

んだ人に入手経路を尋ねた。

その人はオールド・カイロにあるコプト教の教会で下働きをしいて牧師さんにブロンズを売って来るよ

うに頼まれたと言う事だった。

「何で、牧師さんがお父さんのブロンズを売りに来たんだ」ベレニケの話に待ちきれないジェフが言っ

た。

「それで、リハードさんが不審に思って牧師さんに合いに行ったら、驚いた事にパパが教会に居たんで

すって」ベレニケが言った。

「お父さんはお元気なんだね」

「詳しい事は解らないの、ともかくリハードさんはすぐカイロに来るようにって」ベレニケは顔を涙で

ぐちゃぐちゃにして、笑いながら泣いていた。

「すぐにパパを連れて戻って来るわ、貴方をパパに合わせたいの」

「ベレニケ、僕もカイロに一緒に行こうか?

「ありがとう、でも大丈夫よ貴方は帰国の支度があるでしょ、もし居ない間に軍の人が訪ねて来たら脱

走兵だと思われちゃうわ」ベレニケが言った。

実際その通りだった、アビシニアからの帰還兵が数名アレクサンドリアに向かっている事はジェフも聞

いていた。

帰国までの短い時間1日でもベレニケと離れるのは辛い事だったがジェフはアレクサンドリアでベレニケ

の帰りを待つ事にした。


ベレニケは急いで家に帰り、布製の赤い鞄をクローゼットの奥からひっぱり出して荷物を入れた。

ズーラは、赤い鞄を出してそわそわしているベレニケを見ても今回はそ知らぬ顔でベッドに丸くなって

眠っていた。

ズーラは最近、良く眠るようになった。

「ズーラすぐに戻って来るね、パパが帰って来るのよ」ベレニケはうきうきと猫に向かって話しかけた。

ベレニケは、一番早い乗り合い馬車でアレクサンドリアの町を出て、4度乗り継いでカイロに着いたの

は次の日の昼過ぎだった。

迷路のようなハーン・ハリーリ市場も再度の来訪に随分馴れて迷わず歩けるようになった。

水パイプの香りがする路地を通りぬけ、目印の赤い看板の角を曲がるとリハードさんの骨董屋が突き当

たりに見える。

ベレニケは期待で胸を高まらせて、重い木のドアを押した。

奥からオウムの騒がしい声がして、ベージュのガラベーヤ(エジプトの民族衣装)を着たリハードさんが

顔を出す。

「ああ、ベレニケ待っていたよ」

「ご連絡ありがとうございました、パパが見つかったって聞いたのですが」ベレニケは夢のような出来

事を確かめた。

「そう、まったくの偶然でこんな事があるとは驚いているよ」

「パパは元気なのでしょうか?」ベレニケはリハードさんがうかない顔をしているのに気が付いて急に

心配になった。

マリオット博士の事は自分の目で確かめるといいよ、もうすぐ逢えるのだからね」そう言って教会ま

での地図を書いた紙切れを渡した。

ベレニケは地図を受け取って、リハードさんに丁寧にお礼を言って店を出ようとした。

「ベレニケちょっと待っておくれ、君にこれをあげよう」リハードさんはブロンズの猫を手渡した。

「これがあの、猫の像なんですね」ベレニケは言った。

「そう、この猫の像を買った日からマリオット博士の行方が

解らなくなって、この像が私に戻って博士の行方を知らせた

んだ、まるでバステトの女神が宿っているようだ、この像は

君の所へ帰るべき物だと思うベレニケ、君が 持っていたまえ

リハードさんはそう言うと背中を向けて店の奥に入って

しまった。

背を向けたリハードさんの目が潤んでいたのをベレニケは、

気が付きもしなかった。

ベレニケの手の中に残ったブロンズは、台座の上に姿勢よく座っ

た猫の像で細っそりとしたしなやかな体のライン、ピンと立った大きな耳、凛とした横顔のどれもが

ズーラを思わせるものだった。

ベレニケはブロンズを丁寧に鞄の中に入れて、急ぎ足で父の待つオールド・カイロの教会に向かった。

石畳の道で馬車を降りると目の前にローマ時代の塔と壁が見える。

カイロの町の喧騒がまるで嘘のようにあたりは静けさに包まれている。

行く筋もの横道が続く石畳の道を地図を見ながら進む。

迷いながらも次第に地図の示す場所へと近づいている。

コプト教(古代キリスト教)の教会はローマ時代のバビロンの要塞を利用した壁の中にある。

さまざまな迫害から逃れたコプト教の歴史は、教会の殆どを地下に隠した格好で建っている。

イエスの家族は難を逃れるためエジプトに渡ったという。

新約聖書の伝承に述べられている一行が身を寄せた、言い伝えの場所に建てられた修道院の脇を抜け横

道をさらに進むと自然に目的地の教会の前に着いていた。

アーチ型の入り口の外壁をくぐり礼拝堂の中へ入る。

地下に入ると中はひんやりとした空気に満たされていて、暗闇の世界に入ったようでしばらくは、目が

馴れない。

窓ひとつない部屋の中央には小さいが厳粛な雰囲気の祭壇が置かれオレンジ色の蝋燭が灯りゆらゆらと

揺れている。

長椅子の列の先の方で小さな子供が母親の真似をして手を合わせている。

アレクサンドリアのイギリス人居留地の教会とは余りにも違う。

ここには、ベレニケの好きな青い色のステンドグラスを通す明るい光も無い。

黒いローブの神父がベレニケに近づいて来た。

「始めまして、ベレニケ・マリオットと申します、父がこちらでお世話になっていると骨董屋のリハー

ドさんからお聞きして参りました」
ベレニケは歩み寄って、挨拶をした。

「遠い所を良くこられましたな、話はともかくお父様に逢ってからにしましょう」と言って白髪の神父

は奥の部屋に向かって廊下を歩き出した。

牧師の威厳ある態度にベレニケは質問したい気持ちを抑えられ無言で後を追う。

天井の小窓から行く筋もの光の帯がこぼれる、まるで天国から差す光のようだ。

廊下を進み、食堂のような大きなテーブルのある部屋に入った。

部屋の隅にテーブルを背にして窓の外を見ている老人の背中が見える。

ベレニケは始めその老人がパパかもしれないと思った。

しかし、その考えはすぐに変わったパパはこんなに老人じゃない。

髪は白髪で真っ白だし、痩せた背中は猫背になって骨が節くれだって見える。

でも、あの巻き髪の癖はパパと似ている。

ひと回り小さくなってはいるが、肩のラインはパパと同じだ。

ベレニケが声を掛けられずに戸口で立ち尽くしていると、神父は老人の側まで歩いて行って何か言っ

た。

老人はゆっくりベレニケの方を振り返る。

ベレニケは雷に打たれたようになって、走りよって老人に抱きついた。

「パパ、パパどんなに会いたかったか」ベレニケは死に物狂いでマリオット博士に抱きついて泣いた。

ひとしきり泣いて、我に返ったベレニケは博士の異常に気が付いた。

パパは何も言ってくれない、私を抱きしめてもくれない。

人形みたいに、身を硬くしてまるで死人みたいだ。

ベレニケは手を下ろして博士の顔を覗き込んだ。

マリオット博士の顔はまるで蝋人形みたいに表情がなくて目はうつろにぼんやりと見開いている。

「パパ ! 私よ、ベレニケよ、解らないの !」ベレニケは悲鳴に似た声で話しかける。

博士は何を言われても困った様子で、ベレニケをまるで知らない人みたいに見ている。

牧師がベレニケの肩に優しく手を置いて「少しお話をしましょう」と言った。

牧師は、博士と少し離れたテーブルに席を移してベレニケを座らせた。

コーヒーが出されて、良い香りが立ち込めている。

ベレニケは気分を落ち着けようとカップを持ち上げたが、手がぶるぶると震えてカップの中でコーヒー

が波打った。

ベレニケは目を閉じて熱いコーヒーを喉に流し込んだ。

目を閉じると、いつでも微笑んだパパの顔が見える。

思いの中にあるパパは、いつだってベレニケを見つめて笑っている。

「マリオット博士が教会の中庭に倒れていたのはクリスマスの朝でした」白髪の牧師が落ち着いた声で

語り始めた。

「見つけたのは、礼拝に来た信者の女性でイビキをかいて眠っていたので、てっきり酔っ払いだと思っ

たそうです。

こちらに運ばれて礼拝を終えて私が見た時も大イビキで眠っておられました」ベレニケはじっと牧師の話

を聞いた。

「しかし、次の日になっても博士は目が覚めず揺り起こしても返事が無いので、不審に思いましてな、

医者を呼んで診てもらったら、脳の病気だと言われました医者の話ではたぶん数日の命だろうと」

「これは、大変な事になったと思ってとにかく、ご家族に連絡しなければいけないと思いましたが、身

元が解る物は無かったのです、博士が持っていたのは猫のブロンズだけそれもがっちりと握り締めてい

ました」

「他に何も持って居なかったのですか?父はいつも手帳を胸のポケットに入れていましたし、ヒエログリフ

で自分の名前を書いた金のペンダントを胸から下げていました」ベレニケは言った。

「こちらも洋服の隅々まで調べましたよ、財布も手帳もペダントも紙切れ一枚何一つ身元を調べる手掛か

りに成る物は見つかりませんでした。」

「父は、強盗にでもあったのでしょうか?

「それは、当然考えられる事ですな。しかし医者の話しでは倒れた原因はあくまでも病気だと聞いてま

す、この病気は致死率がとても高いそうで助かった事はとても稀だと医者は言とりました」

ベレニケは部屋の隅で外の景色を見ている父の横顔を悲しげに見つめた。

「父は運が良かったのですね、教会に助けて頂いて本当にありがとうございました」

「博士は今は何も解らないのだと思いますよ、残念だが貴方の事も過去の思い出も何もかも、それに体

の右半分は麻痺があるので座っていられるようになったのも、つい最近の事です」牧師は白い眉毛を寄

せて暗い目をした。

「父をアレクサンドリアに連れて帰りたいのですが」ベレニケは言った。

「お気持ちは解りますし、教会としてもそれを望むところです、でもベレニケさんお父さんは以前のお父

さんではないのですよ、しばらくここに泊まって一緒に生活をしてアレクサンドリアに戻る自信がつい

たらお戻りなさい」牧師は優しい目でベレニケの目を見つめた。

ベレニケは、教会の西側の小部屋を借りて父との生活を始めた。

アレクサンドリアに父を連れて帰れば、また元の幸せな日々が戻って来ると思っていた考えは日を追う

ごとに萎んで行った。

博士の感情や記憶はいつでも体とは別の所にあるようで、喜びも悲しみも無い顔でぼんやりとしてい

る。

体の右半分が麻痺の為、食事も一人では出来ないし歩く事も出来ない。

一日の数時間は座って窓の景色を見ているが、それ以外の殆ど時間をベッドで過ごしていた。

牧師は何も言わなかったが、教会が父の為に医師の診察の費用など多額の金銭を支払っている事も解っ

てきた。

猫の像は、困窮した末に売りに出された物だったに違いなかった。

ベレニケが心を決めかねている時、父の容態が急変した。

2度目の病魔がマリオット博士を襲い、昏睡状態に陥ってしまった。

医師は、カイロの中心に在る大病院への入院を薦め、博士は教会を離れて医療設備の整った病院に移っ

た。

今度こそは、危ないかもしれないベレニケは病院のベッドで祈り続けた。

「私の全ての物を捧げます、神様パパをどうか助けて下さい。」

ベレニケの祈りを神が聞き届けたのか真実は解らない。

博士は3日目の朝には生命の危機を乗り越え意識を地上へと取り戻した。

13 別れの時                                    アビシニアン物語り 目次へ 

ベレニケがアレクサンドリアを出て10日が過ぎようとしていた。

マリオット博士の病状は落ち着きを見せ、生命の危険が無いところにまで回復した。

博士は、時折ぼんやりと目を開けてはベレニケを見る。

ベレニケは父親から片時も離れず、手を握り励まし続けた。

博士は日を増すごとにベレニケを頼りにするようになり、忘れられた記憶の変わりに新たな記憶が絆と

して博士の頭の中に書き換えられていった。

ベレニケは指を折って日にちばかりを気にするようになっていた。

4日でジェフがイギリスに帰還してしまう。

アレクサンドリアを出る前の希望に満ちた思いは、もう過去のものとなってしまった。

自分はこれからこの老いた父の為にすべてをつくそうと決めたベレニケだったが、それでももう一度ジ

ェフに会いたかった。

父の側を離れられず迷っていたベレニケに病院から入院の請求書が回って来た。

ベレニケは持っていたお金をかき集めてみたが支払いの半分にもならなかった。

病院に事情を話して、少し待ってもらおう。

急いでアレクサンドリアに帰ってお金を持って・・・・明日の朝カイロを出ればジェフにも逢える。

ジェフに逢って、何と言おう。

ベレニケはその夜、月の光が差し込む病室の長椅子で眠れぬ夜を過ごした。

深夜になって浅い眠りについたベレニケは、太鼓の鳴る音で驚いて目を覚ました。

カーテンを開いて見ると窓の外には濃紺の夜空が広がり、星が瞬いていた。

ベレニレはっとした、ラマダーンだ ! ラマダーンが始まったのだ。

スイラム教の人達は、ラマダーンが始まると太陽が出ている間は一切の食事はしない。

水分はもちろんも自分の唾液さえも飲み込むのを禁じる者もいる。

太鼓を打ち鳴らして夜明けが近い事を知らせるのは、もしも寝過ごしてこの朝食をとり忘れたら、その

日の日没まで何も食べられない事になってしまう為だ。

キリスト教徒のベレニケは父親の事でいっぱいになって、ラマダーンが始まる日をすっかり忘れてい

た。

困った事になった、エジプト人の9割程度の人はイスラム教徒でラマダーン中は仕事が疎かになる。

長距離の乗り合い馬車も、ナイル川を下る船も見つかるかどうか心配になってきた。

病院での支払いの延期の話で責任者を待ってカイロを出発するのが遅くなってしまったベレニケは、や

っと見つけた乗り合い馬車で運良く途中のタンタ
まで行き、そこでアレクサンドリアまで小麦を運ぶ

トラックに乗せてもらい夕暮れ間じかに
マリュート湖の側に来ていた。

いつもは人もまばらな道は、早めに仕事を切り上げて家路に着く人で溢れかえっている。

人々は一日中空腹で苛立ち全力で家に帰り日没の合図を待つ。

道路はのろのろと歩くロバの馬車が道を塞ぎ、クラクションと人々の怒鳴り声や動物の鳴き声で騒然と

している。

ベレニケは業を煮やしてトラックを降りた。

ここから用水路の脇道を通って反対側に出れば、ジェフと来た事のある湖の岸に出る。

マリュート湖はあの日と同じように日の光を浴びた湖面が金色に輝いていた。

ベレニケは、アガパンサスの草むらにしゃがみ込んで静かに目を閉じた。

胸の中にジェフの抱擁の感覚を思い出して、あの日と同じ湖の風に吹かれていた。

薄紫のアガパンサスの花は終わりを向かえて、花の付いていた房にはうす緑色の楕円の実が付いてい

た。

時は残酷に過ぎてしまうものなのだ。

アガパンサスの球根を一株、引き抜いて鞄に入れた。

イギリスに帰るジェフに贈ろうと思った。

あの人は、この花が咲く度に私の事を思い出してくれるだろうか。

ジェフと歩む未来が消えてしまった今は、せめて思い出の中で咲きたいと願った。


夕暮れが空を染め始めた頃ベレニケは、やっと家に辿り着いた。

ドアを開けるとズーラはソファの上で寝ていた体をゆっくりと起こして大きな口を開いてあくびをした。

「ズーラただいま、遅くなってしまってごめんね」

猫はベレニケの顔をチラッと見たが立ち上がりもせず、無関心なふりをして足の裏を丁寧に舐めていた。

「ズーラ怒っているのね、気分を治してちょうだね」と言ってベレニケが抱き上げると猫はゴロゴロと

喉を鳴らして頭を摺り寄せた。

それからベレニケの足に絡みついて尾を上げて後を追った。

ベレニケは父の書斎からヒエログリフの刻まれた古代の銅の器を持ち出して、庭の土を入れてアガパン

サスの球根を植えた。

土まみれの手をはらい家に入ろうとした時、ベレニケを呼ぶテティの声がした。

「ベレニケ!!いったい何処へ行ってたのぉ、遅かったじゃないのぉ」

「テティ遅くなってごめんなさい、ズーラの世話をしてくれてありがとう」

「それで、どおだったのぉ、お父さんは見つかったのかい?」テティは大声でまくし立てた。

「やっとパパと会えたのよ!」ベレニケは固い顔で笑った。

「そりぁ良かったわぁ、嬉しいよぉ」テティはベレニケに抱きついて背中をバンバンとたたきながら大

声で泣いた。

その時、遠くから微かに船の汽笛が聞こえた。

「そうだわぁ、忘れてたよぉジェフが今夜の船でイギリスに帰るんだった!」テティが言った。

「今夜って、出発は明後日じゃないの?」ベレニケが言った。

「それが、予定が変わっちまったらしいんだよぉ、今ならまだ間に合うからこの自転車で行っておい

で」

ベレニケはテティの乗ってきた自転車に飛び乗り、前の籠にアガパンサスの鉢を入れた。

ベレニケが自転車を漕ぎ出そうとした瞬間、ズーラが籠の中にピョンと飛び乗った。

「ズーラ遊びに行くんじゃないの、降りてちょうだい」ベレニケは猫を降ろそうとしたがズーラはバス

ケットに爪を立てて容易に離れない。

ベレニケは諦めて、ズーラを籠に入れたまま港に向かった。


夜の町は、ラマダーンで日没後の食事を終えた人達が繰り出してお祭りのような賑やかさだった。

夜店が道路の両側に出て、甘いお菓子や飲み物を売っている。

楽しそうな人達の間を擦り抜けてベレニケは港に向かって猛スピードでペダルを漕ぐ。

ズーラはバスケットから顔を出して、風に向かって目を細めている。

港の明かりが近かずいて、岸壁に接岸しているイギリス軍の艦船が見える。

乗船が始まったらしく船の上には黒い人影が動いている。

ベレニケは残っている力を振り絞って、自転車のペダルをがむしゃらに漕いだ。

港の人ごみの中に頭ひとつ高く出たジェフの後ろ姿が見えた。

ベレニケは何も考えずジェフの背中に飛びついた。

ジェフは背負っていた背嚢(リュック)を地面に落としてベレニケを抱き止めた。

「ベレニケ逢えないかと思って心配していたよ、遅かったね」ジェフが言った。

「ごめんなさい、パパに会えたんだけど いろいろあって長引いてしまったの」

「ベレニケ、ベレニケ、何て嬉しいんだ これで安心してイギリスに帰れるよマリオット博士がご無事

なら君もイギリスに来られるね」ジェフが言った。

ベレニケは返事をする代わりにジェフにもう一度抱きついた。

父親が今の状態では、とうていイギリスに行く事などできはしない。

永遠の別れの言葉を言う事も、悲しい嘘をつく事もベレニケには出来なかった。

ジェフは自転車の籠の中に座っていたズーラに気が付いて、抱き上げて別れのキスをした。

ズーラは喉を大きくならし額をジェフの顔に何度も擦り付けた。

ジェフは背嚢から包みを出してベレニケに手渡した。

「君に似合うと思ってスカーフを選んだんだ、使って欲しい」ジェフが言った。

乗船を急がす船の汽笛が大きな音で鳴った。

二人はもう一度抱き合って、無言の別れを言った。

ベレニケはアガパンサスの鉢をジェフに手渡して、彼の顔をじっと見つめた。

黒い瞳から大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

兵隊が乗船を急がして叫んでいる。

ジェフは背嚢を背負い「またすぐに逢えるよ」と言って艦船に向かって歩き出した。

ジェフは、口ではベレニケとの別れを容易く言ったが心臓は引き裂かれそうだった。

たかぶった気持ちを必至で抑え口を一文字に結んで艦船に乗船した。

船に乗船すれば、自分はイギリス軍の中の一人の兵士に戻る。

アビシニアから戻った兵士達に自分の甘い恋の気持ちなど悟られる訳にはいかなかった。

船が港を離れベレニケの姿が小さくなって暗闇に吸い込まれて行く。

港の雑踏から船が離れた時何処からか、あわれな猫の鳴き声が聞こえ

た。

デッキに置いた背嚢が変な形に動いている。

ジェフが慌てて背嚢の口を開くとズーラがきょとんとした目で顔を出

した。

「何でズーラがここに居るんだ!」ジェフは急いで港のベレニケに向か

って叫んだが声は暗闇に吸い込まれて届くはずもなかった。

ズーラは、港で船の汽笛が鳴った時に驚いて背嚢に入ったようだっ

た。

猫が入った背嚢の重さを気が付かないほどジェフは動揺していた。

ジェフは腹を決めて、ズーラを預かる事にした。

ベレニケには手紙でズーラの事を知らせよう。

ベレニケがイギリスに来ればどうせズーラも海を渡る事になる、それが早まっただけの事だ。

ジェフはズーラの頭を撫ぜてベレニケの事を思った。

14 洋上で                                           アビシニアン物語り 目次へ 

アレクサンドリアの港を出た船は地中海を西へ向けて航行した。

アビシニアからの帰還兵の中には、行きの船で一緒に来たバレット指揮官が足を負傷して乗っていた。

ジェフは制服を着ると元の兵に戻り、船の仕事を毎日淡々と続けた。

気持ちはすでに未来に向かっていて、早くイギリスに帰って荷受の仕事でお金を作りベレニケとの生活

に備えたかった。

マリオット博士が見つかった事で、安心してアレクサンドリアを離れる事が出来た。

イギリスへ向かう船上でズーラは兵隊達の人気者になった。

戦争で疲れた兵士達は猫の平和なしぐさに安らぎを感じ、ズーラを撫ぜようと沢山の手が伸びた。

ズーラは得意げに尾を上げて船の中を巡回するようになった。

船の中は猫にとっては楽しい事で一杯だった。

ズーラは夜ごとネズミ達を追い掛け回し、狩を楽しんで朝になるとネズミの死骸がそこいらじゅうに転

がっていた。

天気の良い日はデッキに出て毛づくろいをして過ごした。

カモメを追いかけて揺れるデッキの手すりに飛び乗ってジェフをハラハラさせる事もあった。

猫は兵士達に可愛がられて食事の時に兵士達がテーブルの下に投げるチキンや魚をたらふく食べて、す

っかり太ってしまった。

猫好きのバレット指揮官は、ズーラの珍しい毛色に魅せられて、何度も譲って欲しいと言ってきた。

ジェフは、その度にズーラは預かり物なのでと丁重に断った。

ジブラルタル海峡を越えて大西洋に入った晩にバレット指揮官がズーラを抱いてジェフに言った。

「おい、この猫腹がデカイぞ知っていたか?

「そうであります、船に乗ってからすっかり太ってしまって」ジェフが言った。

「お前わかってないな、この猫は妊娠しているんだ、乳が膨らみ始めたから数週で仔猫が生まれるぞ」

バレット指揮官が言った。

「仔猫でありますか?どうしら良いのでしょうか」ジェフは驚いた。

「生まれた仔猫を2匹俺にくれると約束すれば、力になってあげよう、なぁに猫は自力でちゃんと出産

するから安心出来る場所さえ与えればいいのだよ」

「指揮官は詳しくていらっしゃるのですね」ジェフは言った。

「おう!ではずっと猫を飼っているからな、女房のメアリーに仔猫を持って帰ったら喜ぶだろうな」バ

レット指揮官はニヤニヤしながら言った。

「よろしくお願いします、自分は何も解りませんから助かります」

「キャプテンには俺から話をしとくよ、安心したまえ」バレット指揮官が言った。

ジェフは仔猫の事を早くベレニケに知らせたいと思った。

ベレニケはズーラの事を心配しているに違いない。

ズーラの仔猫が生まれる、きっとベレニケは大喜びするだろう彼女の笑顔を思い出すと心の中が暖かく

なった。

大西洋に入って数日は嵐の日が続いた。

バレット指揮官は、ズーラの出産に備えて物置の隅に箱を置いた。

箱が船の揺れでも倒れないように固定して、中に清潔なシーツを入れて準備をしてくれた。

キャプテンや将校への気配りも完璧にしてくれたお陰でズーラの出産は艦船乗組員全員の協力体制となった。

ズーラの腹は益々膨らんで、歩く度にゆっさゆっさと揺れるようになった。

兵士の間では、ズーラの出産日と仔猫の数を賭け事の種にする者まで現れた。

ズーラの出産は艦船の一大イベントとなりつつあった。

バレット指揮官が出産の為に用意した物置にズーラが忙しく出たり入ったりするようになった。

出産が今夜あたりと聞いて兵士達は興味津々でいた。

夜中に見回りの兵士が何回も物置の箱の中を調べたがその夜ズーラは箱の中に居なかった。

朝になって見回りの兵士が洗濯室の奥で猫の鳴き声がするとジェフを呼びに来た。

ジェフとバレット指揮官が急いで洗濯室に行って見ると、シーツの山の奥からミャーミャーと仔猫の声

が聞こえる。

シーツの奥の窪みを覗くとズーラがだらりと力なく横たわり、ぐっしょりと濡れた仔猫をピンク色の舌

で舐めまわしていた。

ずぶ濡れの仔猫は甲高い声で鳴いて弱々しい前足を懸命に突っ張って立っている。

二人が見ていると、ズーラは苦しそうに声をあげた。

膨れた腹のあちこちが化け物みたいに盛り上って、中で仔猫が動いているようだ。

ズーラは激しく息をして後ろ足を突っ張るとセロファンに包まれた風船がぬるりと出て来た。

2匹目が生まれたな」バレット指揮官が言った。

ズーラは羊膜に包まれた仔猫を引っ張って、舐め始めた。

顔を横にして、赤い色のへその緒も上手に食いちぎった。

2匹目の仔猫も弱々しい声で鳴き始めた。

それから1時間ほどの間にズーラは2匹の仔猫を生み、4匹の仔猫の母親となった。

ズーラの出産は16日の水曜日、仔猫は4匹、このニュースは瞬く間に広がり、お昼には艦内の兵士全員

が知っていた。

仔猫達は、濡れた体がすっかり乾いてズーラの腹にくっ付いて乳を吸っている。

仔猫の小さい前足が互い違いに動いて乳を搾り出す。

ズーラは、満足そうに目を細めて喉を鳴らして安堵の表情を見せている。

仔猫は、3匹がグレイのはっきりしないタビーで、1匹の毛色は腹がベージュで背中は赤のある茶色の毛

に額と背中にかけて濃い茶色のブチのある変わった毛色をしている猫だった。

バレット指揮官は母猫と同じ毛色が居ないのに少しがっかりしていたが、茶色の変わった色の猫に興味

を持って、この猫は自分の物だと早々と宣言していた。

出産の次の日からズーラは猛烈な食欲で食べ始めた。

ジェフはズーラが仔猫から離れる事が無いように煮た魚や夕食の残りを洗濯室に運んだ。

仔猫達は、母猫の側に可笑しな格好で寄り添って眠り兵隊達を笑わせた。

母親が居ない時は、暖かさを求め4匹がくっ付きあって眠った。

2週間を過ぎると仔猫達は、活発に動くようになり、洗濯室のシーツの上を這い回り、洗濯物の山から

ころげ落ちて甲高い声で鳴くようになった。

ズーラはこの頃、前のようにジェフの部屋に来るようになった。

ジェフの部屋は4人部屋でジェフは奥の2段ベッドの下を使っている、自分のスーペースはそれだけだっ

た。

ある日、ズーラが仔猫をくわえてジェフの部屋に現れた。

ジェフがあっけにとられて見ていると、すばやくベッドの

下に潜り込んで仔猫を置いて出て来た。

急ぎ足で廊下に姿を消すと、また仔猫を1匹くわえて戻って

来た。

仔猫は床に着きそうに体の力を抜いておとなしく、くわえら

れている。

そうして次々と4匹の仔猫はジェフのベッドの下に納まって

しまった。

これにはジェフは閉口した。

仔猫は、母親が居ないと部屋のあちこちに這い出て、気が気ではないし腹が減ると甲高い声で鳴いて騒

がしかった。

ジェフは同室の兵士に毎日、頭を下げて詫びていた。

母猫は時々安全の為に子供の置場所を変えるよ、と言ったバレット指揮官の言葉どおり2週間後には、

親子は物置の箱の中に棲家を移した。

イギリス海峡に近づいて仔猫とも分かれの日が迫っていた。

バレット指揮官は、茶色の猫とグレイのタビーの一番大きな仔猫を持ち帰る事になった。

指揮官の話だと茶色は雌で、タビーは雄だと言う事だったが仔猫が余りにも幼くて、たぶんと言う話だ

った。

残りのタビーの雄は船のキャプテンがネズミ捕りにと船で飼う事になり、タビーの小さい雌はジェフと

同室の若い兵士がマンチェスターの家に持ち帰る事になった。

船は数日後にポーツマスの港に入り、手のひらに乗りそうな小さな仔猫達はそれぞれの新しい飼い主の

故郷へ旅立って行った。

ズーラはふたたびジェフの背嚢の中に入って、イギリスの地を踏んだ。

久しぶりの祖国は、オークの見事な金色の枯葉が歩道を埋め尽くして頬を吹く風が秋の訪れを告げてい

た。


15 帰還                                          アビシニアン物語り 目次へ 

艦船を降りたジェフはロンドンの母の元に帰り数日を過ごした。

母のクレアは、息子の帰還に喜び火傷で動かなくなった手を見て涙を見せた。

除隊の手続きをすぐに済ませて、わずかな給金を手に郊外のフラットを借りた。

自分には少し背伸びした家賃だったが、何よりも公園に接した1階の部屋は猫が自由に出入りするに都

合が良かった。

ここなら、ベレニケが来ても二人で暮らすのには充分だ。

キッチンの窓からは公園の緑が美しく見える。

ジェフはベレニケがキッチンに立って、料理を作る姿を想像していた。

ベレニケの姿が幻のように浮かびあがってジェフに優しく微笑みかける。

スープの鍋からは湯気が上がって天井に消えて行く。

足元にはズーラが尾を上げて体を摺り寄せる。

そんな幸せな未来はすぐ手の届く所にあると思った。

フラットに越して来た最初の夜にベレニケに手紙を書いた。

.....................................................................................................................................


Dear ベレニケ

元気にしいてるだろうか?

君に元気が無い事を僕は想像しているよ、心配の原因を僕は解っているからね。

まずは、君の心配を治さなくてはね、驚かないで聞いて欲しいんだ。

君の可愛いズーラが僕を見送りに行った夜から行方不明だよね。

あの夜ズーラは、汽笛の音に驚いて僕の背嚢の中に入ったようです。

僕は船が出港してから気が付きました。

もう少し早く気が付いていればと、この事は君に謝らなくてはいけないね。

でも安心して下さい、ズーラは元気で僕と一緒にロンドンで暮らしています。

今もテーブルの上で外の景色を見ているよ。

それから、これは嬉しいニュースでズーラは船の上で4匹の仔猫を生みました。

雌と雌が2匹ずつで、グレイのタビーと茶色の猫です。

仔猫はそれぞれに養子に出しました。

僕はズーラ一匹を飼うのがやっとで、仕方が無かったんだ。

でも君がロンドンに来れば、茶色とグレイの2匹には逢う事は出来るよ。

僕はロンドンの郊外にフラットを借りて一人で住んでいます。

キッチンから公園が見えて君は気に入ると思うよ。

ベレニケ、早く逢いたい。

君と父上がロンドンに来る日を待っているよ。

愛いしてる。 

.....................................................................................................................................

手紙は投函されたが、アレクサンドリアのベレニケの元に届く事は無かった。

ベレニケは、ジェフを送ってからすぐに全ての家財の整理にとりかかった。

細々とした物はスークの商人に売って、テティにも引き取ってもらった。

博士の書斎にあった書籍と古代の品々の中から貴重だと思われる物を選んで、博士のロンドンの大学の

研究室に送ってもらうようアトランテック貿易に預けた。

その他の発掘品は骨董屋のリハードさんが良い値段で引き受けてくれた。

ベレニケはテティにだけ父親の本当の事を話して、口外しないように口止めをした。

まだ帰らないズーラの事をテティに頼んで、アレクサンドリアの家を離れてしまった。

そして、アレクサンドリアには2度と戻る事はなかった。


ジェフは荷受の仕事が始まって、すっかり忙しくなっていた。

船の入港の知らせが来ると港まで自転車を飛ばして走った。

荷降ろしの手伝いも進んでやって汗を流した。

伝票と輸入品の確認そして配送の手配、馴れない港での仕事を何でも進んで懸命にやった。

始めは新参者のジェフに冷たかった、港の人夫も誠実な仕事ぶりを見て次第に手を貸してくれるように

なり軽口をたたくような友人も出来きた。


ズーラはフラットに越して来て、始めのうちは警戒して家の中をふんふんと匂いを嗅いで歩き回ったが

2
日もすると馴れて家の外に出歩くようになった。

ズーラは何もかもアレクサンドリアとは違う風景に興奮しているようで、落ち葉を踏みしめてはカザガ

サと動く音にも飛び上がっていたが、数日すると落ち葉の吹き溜まりに頭から突進して潜りこんで遊ん

でいた。

フラットを覆うツタの葉が燃えるように紅葉して秋は深まって行く。

公園の赤色リス達は、冬の訪れに備えて木の実で頬を膨らませる。

リス達は芝生の上を背を弓にして全力で走りまた立ち止り、小さな両手で穴を掘る。

そのせわしない動きにズーラは狩の本能を刺激されない訳がなかった。

ズーラが赤色リスを追って、公園の芝生を走る姿はゲームのようで楽しげだった。

リスは命を掛けたゲームに必至で走りぬけ、たいがいは木の細い枝に逃れて難を逃れた。

クリスマスの飾り付けが町を彩る頃、アレクサンドリアからの荷物の中にサウスロンドン大学宛の特別

配送の荷物があった。

破損注意の張り紙にジェフはコーチを手配して家に帰る途中に自分で大学まで運ぶ事にした。

4個の木箱に納められた品々はベケニケが送ったマリオット博士の貴重な出土品だった。

大学の研究室まで運んだジェフは送り主がアトランテック貿易になっていた為マリオット博士の物だと

気が付く事はなかった。

ジェフは毎日ベレニケの手紙を待ってポストの中に手を突っ込んでは落胆する日々が続いた。

クリスマスが終わり新しい年が来てもベレニケからの手紙は届かなかった。

低い曇り空が続くロンドンの町にも日が少しずつ伸びてやっと春の気配が感じられるようになった。

公園の花壇のあちこちから地面を割ってスノードロップの白い花が顔を上げ、追うようにして紫や黄色

のクロッカスの花が咲いた。

ズーラは冬の間は始めての寒さに戸惑い、暖炉の脇に陣取って居眠りをする日が多かったが、春の訪れ

とともに公園の向こう側まで出歩くようになった。

その頃、ズーラの子供達の近況を知らせるバレット指揮官から手紙が届いた。

手のひらに乗るほど小さかった2匹のズーラの仔猫達はちょうどバレット指揮官の奥さんの飼い猫に出産し

た後の猫がいたので、乳をもらう事が出来て養母の猫に甘えて元気に育っているようだった。

頭にブチのあった茶色の仔猫は、大きくなるにつれて毛色が変化してズーラのような野うさぎに似た毛

色になって来たと書いてあった。

バレット指揮官の奥様は大喜びで可愛がっている様子だった。

同室の若い兵士からもポストカードが届いた。

若い兵士は故郷のマンチェスターに帰って今は牧場で働いているそうだ。

タビーの小さい雌は牛のミルクを飲ませて育てていたが、下痢をして育たないかと心配したそうだ。

それでも今は何とか大きくなって牧場を元気に走りまわっているそうだ。

仔猫達は、それぞれ幸せに育っているようだった。

ジェフはベレニケの事を毎日考えて憂鬱な日々を送っていた。

益々忙しくなった荷受の仕事で体は綿のように疲れ、帰って倒れるようにベッドに潜り込み倒れるよう

に眠った。

夢の中に毎晩現れるベレニケは、石造りの薄暗い廊下を笑いながら走って行く。

ジェフが追ってもう少しベレニケの手を掴もうとすると、ベレニケは煙のように姿を消してしまう。

ジェフは夢の中でベレニケの名を叫び、辛い気持ちで朝を迎える。

ジェフは、ベレニケに何かあったのではと不安に思ってアトランテック貿易 のクレックさんにベレニ

ケの様子を尋ねる手紙を書いた。

その返事がやっと届いて、去年の秋からベレニケがカイロに行ったきり帰らない事、そしてベレニケの

家が売りに出ている事を知った。

ベレニケを待って、二人の未来を信じていたジェフは手紙の内容が信じられなかった。

ジェフはその後何度もアトランテック貿易に手紙を送り、ベレニケの様子を聞いたがカイロの住所も解

らなかった。

ジェフはベレニケを探す為、アレクサンドリアに行く事を決心した。

費用を作ろうと仕事の量を増やして荷運びはもちろん他社からの荷受の仕事も請けて忙しく働いた。

しかし、運命はジェフの思いとは別の方向に進んでいた。

その年の秋に10年の歳月をかけたスエズ運河が開通してアフリカ大陸の玄関口はアレクサンドリアから

スエズへと変わって行った。

それに合わせてアトランテック貿易もスエズへと移ってしまい、ジェフとベレニケを繋ぐ糸は途切れて

しまった。




16 それから                                  アビシニアン物語り 目次へ 

ズーラがイギリスの地を踏んでから6度目の秋が来た。

イギリスの気候にすっかり馴染んだ猫は、6年の間に10回の出産をして沢山の仔猫を生んだ。

仔猫が生まれる度にジェフは養子先を探しては大変な苦労をしていた。

ズーラはこの秋に11回目の仔が腹に宿って大きな腹を揺すってのしのしと歩いている。

仔猫が生まれる日も近い事だろう、また仔猫達の養子先を探す事になる。

アレクサンドリアの港でベレニケが贈ったアガパンサスの株は夏の間エントランスに出され日の光を浴

びて成長した。

時を経たアガパンサスは株を増やしヒエログリフの刻まれた古代の銅の器には収まらなくなって大ぶり

の陶器の鉢に植え替えられている。

毎年夏に薄紫の花の房を付けるアガパンサスの花を見る度に、ジェフはアレクサンドリアの湖での事を

思い出した。

湖面にさざなみをたて日の光を浴びて金色に輝くマリュート湖。

ベレニケの黒い髪を飾ったアガパンサスの花。

彼女の髪の甘い香り、優しい唇の感触。

6年の歳月を経た今でも記憶は色あせる事はなかった。

ジェフは荷受の仕事を始めたばかりは、アレクサンドリアに行く旅費の為、後にはベレニケへの思いを

紛らわす事を理由に懸命に働いた。

すべての力を出し切って仕事だけに集中している時は、何もかも忘れる事が出来た。

異常なまでもの勤勉さや誠実さで多くの信頼と良き人間関係を持った。

その結果この6年の間に荷受の仕事から独立して小さな貿易会社を作り、10人の社員の雇用主となっ

た。

住まいもフラットを出てブルーベリーの庭が美しい家を買った。

古いが良く手入れされた家で緑に囲まれた場所が気に入っていた。

今は家政婦が週に3回来て身の回り世話をしてくれる。

28歳になったジェフに友人達は結婚を勧めようと色々策略をしたがいつも途労に終わっていた。

ジェフはすっかり三つ揃えの似合う紳士になって、仕事が終わるとパブでゆったりとした時間を過ごす

のが日課になっていた。

一日の疲れを洗い落とすように、琥珀色のビールの泡を見ながらゆっくりと喉を潤す。

家に帰っても待って居るのは猫のズーラだけだった。

秋が深まるこの季節はジェフをいつも寂しい気持ちにさせていた。

いつものようにビールで喉を潤してパブを出ると横の空き地にいつの間にか、クリスマス用のモミの木

の露店が出来て沢山の人で賑わっていた。

小ぶりのテーブルに置けるような鉢から天井まで届きそうな裸のモミの木が空き地いっぱいに無造作に

立てかけて売られている。

金髪のちいさな女の子の手をひいた夫婦が楽しそうに、モミの木を選んでいる。

空き地に樹脂の香りが漂って、人々の幸せなざわめきで満たされていた。

ジェフは取り残された思いで露店の賑わいを見ていた。

黒いコートを着た女が重そうなモミの木の鉢を抱えて夕闇の町を去って行く。

頭に巻きつけた花模様のスカーフにジェフは目を止めた。

アレクサンドリアで別れの日に贈ったスカーフをベレニケは今も持っているだろうか、ふとそんな思い

が心を過ぎった。

ベレニケに対する思いは、波のように繰り返しジェフの心に押し寄せては去って行く。

ジェフの心は波に洗われて侵食された岩のように時が過ぎても癒される事はなかった。

露店を背にして歩き出した時、誰かがジェフの肩を叩いた。

振り返るとそこに懐かしい笑顔があった。

「やあ!!ドナルド久しぶりだね、無事に帰還していたんだね」ジェフが言った。

「ああ、君が船で怪我をして以来だからね、あれからすぐにイギリスに帰ったのかい」ドナルドが言っ

た。

「君たちには、本当にすまない事をしたと思っているよ、僕は秋までエジプトに居て手術をしたけど指

が動かなくて結局、怪我をしたバレット指揮官達と同じ船でイギリスに帰って来たんだ」

「君はある意味では運が良かったよ、僕はあれから戦争が終わるまでアビシニアに居たんだ、僕は通訳だっ

たから無事に帰還できたって訳だよ」

アビシニアに向かう艦船で一緒だったドナルドと再会したジェフは今出て来たばかりのパブに二人で戻

り再会を祝って深夜まで昔話に花を咲かせた。

ドナルドはアビシニアでの戦いの話になると言葉を濁した。

彼にとってテオドロス軍との戦いの話は思い出から消してしまいたい事なのだろう。

戦場に命を落として行った仲間達の事を思いジェフは、申し訳ない思いで一杯だった。

「ドナルド君は今どんな仕事をしているの?

「僕は、前に所属していたサウスロンドン大学の研究室に戻って働いているよ」

ドナルドが言った。

「それは良かったね、君はやっぱり学者さんが一番似合っているよ、そうだドナルド君は、結婚はした

のかい
?

「いやまだなんだ、同じ研究室に気になる女性は居るんだけど、彼女なかなか固い人でね、クリスマス

に彼女の気に入る物をプレゼントして告白しようと
思っているだけどね。」

「それじゃあ今年のクリスマスは勝負だね、奮発して指輪でも買うのかい」ジェフは笑いながら言っ

た。

「それがね、指輪で喜ぶような女だったら僕も簡単なんだけど、彼女にそれとなく欲しい物を聞いたら

猫が欲しいって言うんだ」ドナルドが言った。

「仔猫を贈って、二人でその仔を二人で育てましょうって訳かそりゃいいじゃないか、そうだドナルド

僕が飼っている猫がもうすぐ子供を産むよ、もらってくれると助かるんだげと」ジェフが言った。

「僕はあちこち仔猫を探していた所だよ、今日ここで君に逢ったのは神様のお導きだね是非譲ってくれ

たまえ」ドナルドが言った。

ジェフとドナルドは仔猫が生まれたら連絡すると約束をして上機嫌でパブを出た。

ドナルドと出会った次の日曜日の夜にズーラは3匹の仔猫を生み、タビーの雌猫がクリスマスの日にド

ナルドの研究室に届けられる事になった。

約束のクリスマスの日は朝から霙まじりの雨が降る寒い日だった。

ズーラは最後に残った雌のタビーを暖炉の側のソファの上で大事

そうに舐めまわしていた。

ジェフは仔猫をズーラから取り上げて、家政婦のケイトさんに作

ってもらったリボンを仔猫の首に巻きつけた。

サンドイッチを入る籐の籠に綺麗な布を敷いて仔猫を入れ、その上

からブランケットで包んで仔猫が寒くないように気を配った。

ズーラは不審な目でジェフを見たが少し鳴いただけですぐに諦めた。

何回も仔猫との別れを経験しているズーラでも、こんなにあっさりとし

た別れは珍しい事だった。

クリスマスとは無縁の我が家を出て、猫の籠を抱えてサウスロンドン大学に向かう。

道路に沿った家々のドアにはヒイラギやモミ葉で作ったリースが飾り付けられて、暖かそうな灯が窓か

ら漏れている。

クリスマスの夜はキャンドルを灯しツリーを囲み人々は楽しい夜を過ごす。

ジェフは幸せそうな窓の灯を羨ましく見ながら、自分はそこへは辿り着けない遠い場所のように思って

いた。

霙まじりの雨は、いつしか雪に変わって歩道を白く変えていた。

小声で鳴く仔猫をあやしながら、サウスロンドン大学の建物に入る。

約束のドナルドの研究室は2階の東側の部屋だった。

ドアを開けて若い研究員に案内されると奥のデスクにドナルトが待っていた。

「やあ、ジェフせっかくのクリスマスに悪かったね」ドナルドが立ち上がって言った。

「いや構わないよこの仔が約束の雌のタビーだ、ズーラの仔は美人ぞろいだから、彼女はきっと気に入

ってくれると思うよ」そう言って仔猫のバスケットをドナルドに手渡した。

「もうすぐ彼女が戻るから君に紹介しょう」ドナルドが言った。

「ああ、悪いな今日は予定があるんだ僕はこれで失礼するよ」ジェフは仔猫を渡すと逃げるように研究

室を後にした。

ジェフはドナルドの幸せな顔を見ながら自分を取り繕う気力はないと思った。

大学のエントランまで降りると雪はさっきより激しさを増して降り続いていた。

ジェフは、ため息をついて校庭を歩き始めた。

今夜は家に帰ってズーラとスコッチでも飲もうと思った。

ジェフは吹雪に顔を打たれて、目を閉じて眉を寄せた。

大学の門に続くオークの並木道を半分ぐらい進んだ時に後ろからドナルドの声がした。

「ジェフ!ちょっと待ってくれ、彼女がお礼を言いたいそうなんだ」

ジエフが振り返えるとエントランスにドナルドと仔猫の入ったバスケット抱えた黒い服の女が立ってい

た。

降りしきる雪が顔を叩いて、ジェフは益々暗い気分になった。

仕方なく、エントランスへ戻りかけるとドナルドと女が何か言い合っている。

突然女は仔猫の入っているバスケットから手を離し、バスケットは雪の地面に落ちて行った。

何て事だ!ズーラの大事な仔猫をジェフはあっけに取られて見て、エントランスに向かって走り出した。

バスケットは地面に着くすれすれの所でドナルドに拾い上げられて仔猫は無事のようだった。

怒りに燃えて走り出したジェフは、女の顔が見える所まで来て足を止め、それ以上足が震えて前に進む

ことが出来なかった。

心臓が壊れそうに動いて、涙が溢れ出て頬を濡らしていた。

ドナルドと並んで立っていたのは、6年間片時も忘れた事がなかったベレニケの姿だった。

ベレニケも泣いていた、遠目にも肩を震わせている様子がよく解った。

二人はお互いに吸い寄せられるように雪の降りつけるエントランスの前の道で抱き合い言葉も無く泣き

続けた。

エントランスにはバスケットを持った蒼白な顔のドナルドが呆然と二人を見つめていた。


暖炉の火が赤々と燃えて部屋を暖かく照らしている。

ベレニケは頬を紅潮させてジェフを見つめる。

ジェフは数時間前の出来事が夢でないようにと、心から願っていた。

ズーラは仔猫が戻る事をまるで知っていたように、満足そうに喉を鳴らして乳をやっている。

「ズーラは何でも知っていたのよ」とベレニケは言う。

6年ぶりに逢ったベレニケに対しても猫は、昨日のまでいた人と同じようにすぐに擦り寄って尾を上げ

て挨拶をした。

「ズーラありがとう、何もかも貴方のお陰だわ」ベレニケは猫に頬ずりして言った。

猫は目を細めて、解りましたよと言わんばかりにベレニケの頬をザラザラの舌で舐めた。

二人は離れていた6年間の出来事を夜が明けるまで語り合った。

ベレニケは、父親の看病の為に生活のすべてをカイロに移し4年間を過ごした。

マリオット博士は、最後までベレニケを娘だと理解する事が出来なかったが3年間は穏やかな生活を送

る事が出来たと言う。

その後三度、マリオット博士は昏睡時様態になって静かな最後を迎えたと言う事だった。

博士の死後に遺品の生理の為にサウスロンドン大学に連絡をすると、マリオット博士の友人だった考古

学研究室の教授が、ベレニケをヒエログリフの研究員としてイギリスに迎えたいと言ってくれた。

ベレニケは父親の骨を持ってイギリスに渡り、サウスロンドン大学に席を置いたそうだ。

ジェフは突然姿を消したベレニケを責めたい気持ちはあったが、もうそんな事はどうでも良かった。

今ベレニケが目の前に居る、手を伸ばせば柔らかな頬に触れる事が出来る。

17歳のベレニケは6年の歳月を経てしっとりした大人の女性になって輝きを増していた。

ズーラはちゃっかりと彼女の膝で丸くなって寝息をたてている。

雪はいつの間にか止んで、白く染められた庭に朝の光が反射してキラキラと輝いていた。


ジェフとベレニケはその年の内に2人だけで式を挙げてブルーベリーの庭のある家で生涯を過ごし4人の

子供を育てた。

仔猫はキャロルと名付けられて未来へと子孫を繋いだ。

ズーラはキャロルが最後の仔猫となって、14歳でこの世を去った。

ズーラの野うさぎのような毛皮の血を受け継いだ猫は生涯、バレット指揮官の手に渡った雌の猫だけだ

った。



1871年ロンドンで行われたキャットショーでハンドリングされた猫は人々の視線を釘付けにした。

しなやかで筋肉質なすらっとしたボディ、大きな耳。

そして何よりも人々を驚かせたのは、全身アグーチの綾織りのようなゴールドの被毛だった。

1882年にアビシニアンとして正式に公認された猫は、全世界にその子孫を広げて行った。

その起源となったのは他ならぬズーラであり、バレット指揮官の雌猫だった。

.

あなたのアビシニアンが、マウと鳴いたらそれは遠いエジプトの祖先からのメッセージかもしれない。




あとがき

この物語はアビシニアンの起源は、1868年のイギリス兵がエジプトのアレクサンドリアの港にいた「ズ

ーラ」という名の雌ネコをイギリスに持ち帰ったのが起源とされる。
   (猫たちの世界旅行・ロジャー

ティバー
)
と言う史実を元に書かれたフィクションです。





アビシニアン物語りを最後までお付き合い頂きありがとうございました。

ご感想をお待ちしています。   しもべ




アビシニアン物語り 目次へ 

アピシニアン物語り裏話(猫の毛色の遺伝など)はこちらから

あび猫本舗